2011年9月27日火曜日

身体の中心にあって、それを展開せしめるダンダ


メール山をヒンディ語辞書で確認していた時、私は不思議な単語を発見した。その名は『メール・ダンダ』。それは人の体幹を支える背骨(脊柱)を意味する言葉だった。身体の中心にあるメール山としてのダンダ。このいかにも意味ありげなネーミングに興味をひかれた私は、再び脳内とパソコンとネット上の情報を検索して回った。そして明らかになったインド的身体観。それは前節までに述べてきた全ての『中心』概念を文字通り体現するものだった。

タントラ・シャクティに基づいたヨーガの身体観において、私たちの身体に重なるようにして目に見えない霊的微細身が存在する事は前に書いた。そこにはプラーナが流れる大小のナディ(脈管)が想定され、背骨と重なる中心的な脈管がスシュムナー管だった。そして、このスシュムナー管の周りをらせん状にイダーとピンガラー管が取り巻いている。そして、このイダーは月の回路を、ピンガラーは太陽の回路を意味し、中央のスシュムナー管は須弥山に擬せられる事が分かったのだ。これは体内に須弥山の構図がそのまま再現されている事を意味する。

ここにインド的身体観の特徴が明確に表れている。つまり身体を含めた人間存在の全てをミクロ・コスモスと見なし、マクロ・コスモスである世界の縮図ととらえるのだ。大宇宙の中心にブラフマンというスカンバが立つ様に、小宇宙である人体の中心には背骨(スシュムナー管、以下同)が、『メール・ダンダ』の名前で直立する。これは個我の本質であるアートマンが実はブラフマンと同一である、というウパニシャッドの思想とも深い関わりを持っている。

スカンバがマクロ・コスモスの車軸であるならば、メール・ダンダである背骨もまたミクロ・コスモスの車軸に他ならない。世間に流布しているヨーガ・チャクラ図を見ると、各チャクラの円盤面が正面を向いて描かれる事がほとんどだ。そのため私たちはつい錯覚してしまうのだが、実は本来のチャクラは背骨を車軸に見立てた時に車輪となるように、地面に対して水平に存在している。だがヴィジュアル的に見て、盤面を正面に向けた方が美しいために便宜的にそう描かれるのだ。これはヨーガ・チャクラ図を詳細に見れば、ひと目で確認できる事実だった。


中央をスシュムナー管に貫かれたアナハタ・チャクラ

各チャクラを車軸に貫かれて七層に重なる車輪とみれば、その構図はストゥーパ頂上に立つ多重チャトラや五重塔の九輪、そしてカラリ道場のプータラとも重なり合う事が容易に理解できるだろう。

実はストゥーパの形について、それはブッダが坐禅している姿を表すという説がある。確かに日本山によく見られる様な釣鐘型のストゥーパは、そのドームの丸みが肩の丸みと重なり合い、瞑想する人の坐形をも思わせるのだ。だとすると、その中心にある柱は当然脊柱の寓意となり、チョルテンの軸柱構造や五重塔の心柱がまた違った意味を持って見えて来るだろう。


一方、法身の毘廬舎那仏が蓮華蔵世界の中心上空に坐する姿をイメージすれば、その直立する背骨はマクロ・コスモスの巨大なスカンバとなる。その大なるスカンバと小宇宙なる人のダンダ(背骨)とが重なり合い、さらに法身の仏と個々の衆生が持つという仏性とが重なり合い、それはブラフマンとアートマンの仏教版とも考えうる。

そしてダンダが持つもうひとつの意味が蓮華の『茎』であった事を考えた時、更なるイメージが明らかになる。背骨の最下部、会陰のチャクラはムーラダーラと呼ばれ、それは『根』のチャクラを意味している。そこで目覚めたクンダリーニのエナジーは『茎』である背骨を真っ直ぐに上昇し、ついには頭頂部にサハスラーラ・チャクラ、すなわち『千の花弁の蓮華』を開花させる。これは前に記述した、

『水底の泥に埋まる根が世俗での生活を、濁った水中を上昇する茎が神を目指す精進を、水面を離れた空中で太陽を受けて花開く蓮華が解脱を表す』

という、あの聖なる蓮華観の体内における再現に他ならない。

車軸に貫かれた車輪の様に、茎に支えられて花開く蓮華の様に、クンダリーニに貫かれた各チャクラは活性化し、頭頂部のサハスラーラ・チャクラにおいて満開の華輪を開く。それはメール山や蓮華蔵世界、ローカ・パドマとも重なり合い、身体の中に構築された大宇宙、チャクラ・ボディの完成を意味していた。

ヨーガ・アサナを初めて習った時、私は『ヨーガはそのポーズの取り方によって三つに分類できる』と説明を受けた記憶がある。最初は背骨を前後に曲げ伸ばす運動。次に背骨を左右にひねる運動。最後に背骨を両サイドに横曲げする運動。中でも重要なのが最初の運動で、前屈系のパスチモッターナ・アサナやハラー・アサナ、後屈系のブッジャンガ・アサナやチャクラ・アサナなど、最も重要なポーズはほとんどこれに含まれている。つまりヨーガ・アサナとは、背骨を曲げ伸ばす運動と同義なのだ。

そこには、背骨を可能な限り柔軟にし、活性化する事によって、重なり合うスシュムナー管にプラーナを通し、もってクンダリーニの覚醒とチャクラの活性化をはかる、という方法論があった。そしてその背後には、ミクロ・コスモスの車軸である脊柱(ダンダ)をアートマンと見立て、マクロ・コスモスの車軸でありスカンバであるブラフマン(シヴァ)に帰着させようとする思想が潜在している。アートマンの活性化に呼応してブラフマンも活性化し、二つのエナジーが引き合ってそこに神人合一が成就される。これこそがハタ・ヨーガ実践の究極のゴールなのだ。

そしてこのような考え方はヨーガだけにとどまらず、武術をはじめとした身体文化すべてに通奏低音のように伏流していた。インド語でエクササイズを表す言葉に『ヴャヤム』があったのを覚えているだろうか。その意味は『すべての方向に曲げ伸ばす』だった。今思えば、その核心にある焦点こそが『背骨』だったのだ。振り返ってみれば、クシュティのエクササイズを始め、マラカンブやメイパヤット、そして棒術の回転技に至る、すべてに共通するのが、この背骨に対する強烈な働きかけだった(ここで言う『背骨』とは、頸椎から仙骨先端の尾骨までを意味し、広義には頭がい骨とその内部の脳をも含む)。

クシュティのラッサは、吊り下げられたロープを両手の力だけで登るエクササイズだった。両手で交互にロープをつかみ身体を引き上げていく動きは、わかりやすく言うとトカゲの歩行に似た背骨のうねりを生み出す。文字通りダンダという名の腕立て伏せでは、ダイナミックな背中の曲げ伸ばしがその特徴だった。マラカンブについては柱上のヨーガという異名がその本質をよく表し、説明の必要さえないだろう。

カラリパヤットの場合も同じことが言える。段階的な蹴りのエクササイズから始まり180度開脚に終わるメイパヤット。さらに前屈して両手を前についた状態から手を離さずに上体を旋回させる360度旋回ブリッジに至るすべてが、実に強烈な背骨への働きかけに他ならない。これは私自身の実体験からも深く頷けるのだ。


背骨に強烈に働きかけるメイパヤット

ある時私は、ヴィジャヤン・グルッカルの娘で英語が話せる事から師範代として私の指導をしてくれたカヴィータ嬢に、稽古中裸の背筋をすうっと撫でられてゾクッとした事がある。彼女が二十代の魅力的な女性だった事もあって、一瞬私はドキッとした。けれど真剣な彼女の眼に見つめられて、すぐにその勘違いに恥じ入ったものだ。

聞けば象のポーズやライオンのポーズ、ニーキ・デルテと呼ばれるイノシシのポーズなど、下半身の重心を極端に落として上体を起こした姿勢では、仙骨から腰椎にかけての『反り』を常に一定以上に保ちながら、決して猫背にならずに背筋を起こし続けることが一番重要なのだという。そして、この体勢が実にきつい。身体の固い私にとっては蹴り以上に泣きが入ったものだった。

そして棒術の回転技ついても、目立たないながらこの原理は共通している。棒を回しながら頭上で左右の持ち手を変える時、その背筋は大きく反り、お尻の後ろで持ち替える時は逆に背筋が前かがみになる。左右の体側で持ち手を変える時体幹は大きく捻じれ、ステップと共に棒の回転を切り返す時もまた大きな体幹のひねりを伴う。更に上級レベルのダブル・スティックでは、両手に一本ずつ持った棒を同時に回すことによって、ラッサ以上の体幹のうねりを生み出している。本稿ではこれ以上の詳述は控えたいが、その動きのすべてが、やんわりと時に激しく、体幹の柔軟性を開発していくのだ。

インド式エクササイズは、背骨(体幹)の柔軟性というものをかように重視する。そこには『柔軟な背骨はすべての病を防ぐ』という言葉すらある。これこそがインド武術の第一印象である『異質な身体観』の核心だったのだ。そして興味深いのはこの『すべての病』の中にメンタルな要素も含まれている点だ。

近年さまざまな形で瞑想というものが私たちの生活の中で身近になってきているが、そのほとんどがインドにその起源を発している。そして坐って瞑想するとき、最も重視されるのが、背骨を立てると言う事、さらに仙骨から腰椎にかけての反りが重視される事だろう。

背骨とは単に物理的に体幹を支えるだけではなく、内部を通る脊髄は脳に次ぐ最も密度の高い神経中枢である。背骨を立て、常に背骨コンシャスであることによって、内部を走る神経中枢そのものが活性化し自ずから瞑想の深化がもたらされる。インド的エクササイズにおいて背骨を柔軟に動かすということは、単に物理的、生理的観点だけではなく、全身の神経システムが大動脈的に集まる脊髄中枢そのものの活性化と集中力の強化を意味するのだ。

背骨コンシャスに坐り、運動する。このことは心の座である脳にダイレクトに作用する。もちろん、脳は身体システム全体のオペレータであり、システム全体のバランスをとり、あるいは免疫などの生体防御システムを制御するものでもある。そしてそれらの指令はすべて背骨(脊髄神経)という第二の中枢を通じて全身に展開分配される。そして、残念な事に、私たちはこの脳を物理的に運動させる事は出来ない。それは頭がい骨という完全にシールドされたカプセルに守られて、外部からの働きかけを拒んでいる(唯一の例外がアルカロイドという脳内活性物質だがここでは触れない)。わかりやすく言えば、私たちは脳をストレッチする事も出来ず、マッサージすることもできない。そこで重要になるのが背骨の存在なのだ。

背骨を柔軟に動かし、背骨コンシャスに瞑想することによって、それはダイレクトに脳そのものに作用し、そのメンテを行い活性化させる。その集中は、心と身体のすべてを神経レベルでチューンナップし、戦士にとって最大の障害となる『恐怖』をも克服する。インドのフィジカル・エクササイズの隠された目的が実はここにある。どんなに太い筋肉でその身を鎧おうとも、それを操作する神経系、さらに総合司令塔である脳や心がシャープでなければ、身体は動かない。特にそれが戦場という極限状態であればなおさらだろう。

私たちの身体の中心には一本のダンダがある。それは身体というインナー・スペースを物理的、『神』経的に支える柱だ。ダンダが『神』であった事を思い出す時、背骨はイコール神そのものをも含意する。その内なる小なる神を活性化する事によって、世界の柱である外なる大いなる神もまた活性化される。そして二つの神が交感しつながった時、戦士はあらゆる恐怖から解き放たれ最高度のパフォーマンスを発揮し、瞑想者は解脱を得る。インド的エクササイズとは、その根底にあるアートマンとブラフマンの思想を、ひとつの方法論として見事なまでに具体化し実践化したものだった。

この様な、背骨をダンダと見る思想を前提にすると、神仏像の造形デザインにまた新たな光を当てる事ができる。例えば、蓮華蔵世界観に基づいて蓮華座の上に神仏が坐し、その上にチャトラや菩提樹が掲げられている場合、それは蓮の茎から背骨をへて傘の柄や菩提樹の幹に至る、一本の壮大なダンダ連なりと見る事ができるのだ。この様な構図はジャイナ教やヒンドゥ教においても普遍的に採用されていて、聖なるダンダ、あるいは神的なスカンバによって一貫されている世界観を、見事に象徴していると言えるだろう。

パールヴァティ像に見る中心ダンダの四連続連なり。

サモウシャラン図に見る中心ダンダの五連続連なり

人の身体と一本のダンダを重ね合わせる思想は、ヨーガや武術以外の日常的な宗教実践の中にも違った形で表れている。それが五体投地だ。これは身体を真っ直ぐに伸ばしさらに両腕を頭上に挙げた状態で、大地に全身を投げ出して神仏を伏し拝むというもので、日本や東アジアの仏教はもとより、チベット仏教において、そしてヒンドゥ教やジャイナ教、シーク教に至る全インド教において、最上の礼拝法として現代に至るまで脈々と伝えられてきた。

これら五体を大地に投げ出す礼拝法をヒンディ語ではダンダ・ヴァットあるいはダンダ・プラナームと呼ぶ。それは文字通りダンダの礼拝法なのだ。考えてみるとほかの動物と違って直立二足歩行をする人間の身体は、そのままで棒や柱に見えない事はない。意味はまったく違うが、日本語の人柱などという言葉もこの間の消息をよく表している。両手両足を真っ直ぐに伸ばして、文字通り手も足も出ない棒状に身体を投げ出して礼拝する姿は、神仏であるダンダを見事に『模倣』してもいる。それは至高者に対する完全な帰依と自己放擲を、象徴的に表した身体祈願の法だったのだろう。

そしてもちろん、大地に身を投げ出しては立ち上がり再び投げ出すというその動きが、背骨を大いに活性化する事は言うまでもない。五体投地行の繰り返しによって人の心はより繊細にチューニングされ、信仰という心の働きは、ますます深まっていくに違いないのだ。


2011年9月26日月曜日

蓮華の中心にあって、それを展開せしめる花托



本章でも至る所で、車輪と同一視された蓮の華輪の重要性について見てきた。そして改めてこの華輪のデザインを見ると、その中心に車軸と同じような核芯が存在することに気づくのだ。これは何だろうか?調べてみるとそれは花托と呼ばれる雌しべの集合体である事が分かった。そして花托の周りにある装飾の様なフリンジが雄しべだった。

花托は受粉して時がたてば沢山の種を孕む。その種が顕現したものが蓮華に他ならない。つまり蓮の華輪の中心にある花托は、同時に蓮華を世界に展開させる『根本原質』でもあると言えるだろう。


蓮の華輪の中心には花托がある

ここで重要なのは、華輪の中心にあるのが花托という雌しべの集合体、つまり女性原理であるという事だった。車輪との比較で言えば、構図的にはオス型の車軸の位置に花托はありながら、それは女性原理へと逆転している。

この華輪のデザインは、モンスーン世界に生きる先住民の世界観を象徴し、南インドのドラヴィダ世界では、ラクシュミ女神や母によって描かれるランゴーリ、シャクティやバクティなど女性原理と密接に関わりながら、現代に至る吉祥華輪の万華鏡世界を展開してきた。

その中心に女性原理の花托があるという事は極めて重要だった。それは太古より地母神を信仰してきたドラヴィダ人が、文字通り女性原理の中心性を表さんとして生み出したデザインだったに違いない。そこには、オス型である車軸を中心に据えたラタ戦車の車輪が侵略者アーリア・ヴェーダの男性原理を象徴し、メス型である花托を中心に据えたモンスーン蓮華文化の華輪が先住民の女性原理を象徴するという、対置の構図があったと私は見る。

そう思ってサンチーで花開いた華輪のストゥーパに立ち返ってみよう。中心にあるストゥーパは男性であるブッダの遺骨を納め、その突起した形状からも男性原理を表している。そして第2ストゥーパの周囲をめぐる欄楯には、印象的に華輪デザインが施され、第一ストゥーパの欄楯の入り口であるトラナには、地母神を表すヤクシやラクシュミ女神、結界としての華輪があしらわれていた。つまり中心にある男性原理のストゥーパを取り囲んで、女性原理である欄楯とトラナがそれを守っているという構図になる。そしてそれは、男根であるリンガとそれを取り囲む女陰であるヨーニというシヴァ・リンガムの構図と、全く同じである事に思い至るのだ。

トラナに刻まれたヤクシ女神

この点に関しては別の仮説も成り立つ。このお椀型のストゥーパが母の乳房や臨月の母胎を象徴し、欄楯やトラナと合わせてそのすべてが女性原理を表し、唯一男性原理であるブッダの遺骨を守る(孕む)という可能性だ。

原始仏教の時代、出家する僧侶のほとんどがバラモンなど社会的地位の高い男性だった。ブッダ自身は最後の最後まで尼僧の出家に対しては反対していたともいう。つまり原始仏教とは男性原理が圧倒的優位な世界だったのだ。だがブッダの死後時が経ち、やがて在家信者を主体とした大乗化の大きなうねりが到来する。それは同時に、女性原理の逆襲をも意味していた。

シッダールタがセクシーな美女の誘惑をマーラ(魔)と呼び完全にそれを退けて覚りを得たとしても、彼自身が女の胎から生まれたという事実は絶対に否定できない。女性原理の存在なくしては、いかなブッダと言えども覚りはおろかこの世に誕生する事すら出来ないのだ。そう思ってサンチーのトラナに刻まれた地母神ヤクシの造形を見ると、それはシッダールタの実母であるマヤ夫人が、サーラ樹に寄りかかって彼を産み落としたという絵柄と酷似している事に気づくだろう。雌しべである花托を車軸の替りに中心に据えた華輪のデザインは、そのような女性原理の復権を見事に象徴していたとは言えないだろうか。


樹に寄りかかってシッダールタを産むマヤ夫人

この様な女性性の思想は現代ヒンドゥ教の女神像の中にもはっきりと表れている。それが一際目立つのが蓮華と最も深い関わりがあるラクシュミ女神だ。一般に美しい蓮華座に坐っている姿で描かれる事が多い彼女が、蓮の華輪に立っている構図も存在する。それを見ると、彼女は華輪の中心、つまり花托の上にあたかもその化身であるかのように立っている事が分かる。

一粒の種の中には、蓮という実存の全てが凝縮され内包されている。逆に言えば種は蓮のすべてに浸透している展開因だった。その種を孕んだ花托は、花びらが散り雄しべが落ちても、最後まで茎と一体化した柱として水面上に立ち続ける。花托の上に直立するラクシュミの姿は、世界の柱として屹立し世界の全てに浸透するヴィシュヌ神の、女神版だったと言えるだろう。


花托の上に立つラクシュミ女神

実はインドでは、世界を車輪の転回と見立てる世界観と並んで、世界を蓮華の展開と見る世界観も存在した。それが、大乗仏教を通じて日本にも伝わっている蓮華蔵世界観だ。蓮華蔵世界、それは華厳経や梵網(ぼんもう)経の中心テーマとなる思想で、前に紹介した須弥山世界の発展版とも言えるものだ(年代的には俱舎論よりも華厳経の方が古いが、思想的な時系列では逆だと見る)。

金輪の上に広がる大海に巨大な蓮の華が咲き、さらにその上はまた海となってそこからも無数の蓮の華が咲いている。それぞれの蓮華の上に須弥山を中心とした世界が成り立ち、これを小蓮華と呼ぶ。ひとつの小蓮華には一人の仏がいて教えを説き、その小蓮華が千集まって小千世界を造り、それが千集まって中千世界を造り、さらにこれが千集まって大千世界を形作る。千を三回かけたことからこれを三千大千世界と称している。そしてこの途方もなく巨大な三千大千世界の上空中心に、そのすべてを統括する法身の仏が大光明を放って鎮座している。これを毘盧遮那如来と言い、その頭からは、三千大千世界すべての仏が、絶えずポコポコと生み出されているという。


蓮華蔵世界

この壮大な蓮華蔵世界観は、本国インドでは仏教の滅亡とともに失われてしまったのだが、遠く極東の日本にまで流れ着き、奈良東大寺の大仏(毘廬舎那如来)となって現代に伝わっている。華厳経が成立したのは西暦三世紀頃と言われ、それはちょうどサンチー、バルフート、アマラヴァティからナガルジュナ・コンダへと続く華輪の文化が成熟した時期と重なっていた。そして東大寺の大仏をはじめとした仏像たちが蓮華座に乗る造形は、実際には『花托』を台座としており、そのままラクシュミ女神が蓮華座に坐し、あるいはその中心の花托に立つ姿と重なり合う。つまりこの大乗的な蓮華蔵世界観は、ヤクシやラクシュミといった女性原理の復興という時代背景の中で、その影響下で生まれたものと推定できるのだ。

そう思って見ると、法身の仏のイメージは父の厳しさよりもむしろ母の慈愛を強調していないだろうか。そしてあたかも花托から無数の種が飛び出す様に、毘盧遮那如来の頭からは無数の仏たちが生まれて来るのだ。

この毘盧遮那如来、サンスクリット語ではヴァイローチャナ、つまり遍照と言い、実は密教の大日如来の祖形とされている。以前私は、「大日如来は遍照の太陽神格であり、同じ太陽神であるヴィシュヌ神の仏教におけるカウンター・パートだったのではないか」と書いた。この遍照とヴィシュヌとの相関を裏付けるように、ヴィシュヌ派の神話の中に蓮華蔵世界との明らかな類似を見る事ができる。バガヴァタ・プラーナによれば、世界の創造はヴァイクンタの海に横たわるヴィシュヌの臍から芽生えたローカ・パドマ(世界蓮)と、そこから生まれたブラフマーに帰着するというのだ。

ヴィシュヌ神の臍から生えるローカ・パドマ

蓮華の化身ラクシュミ女神がヴィシュヌ神の神姫である事を考えると、蓮華蔵世界の主『毘盧遮那如来』とは、ヒンドゥ教におけるヴィシュヌとラクシュミの属性を併せ持ち、男女という性差を統合し超越した仏教版の最高神であったと考えられる。毘盧遮那如来の頭から無数に生まれて来るのは世界の教師である仏だったが、ラクシュミ女神の場合は、その手に持つ壺から世俗の富を象徴する金貨が無限に溢れ出している。この辺りに、同じ最高神でも仏教とヒンドゥ教が持つ価値観の違いが如実に表れていると言えるだろう。

当時のインド人が、なぜ蓮華の中に女性性を見出し、その蓮華と車輪を重ね合わせて華輪デザインや蓮華蔵世界観を生み出したのか。その根源的な疑問に対する解答らしきものを発見したので、ここに紹介したい。

これは後日談になってしまうのだが、最後の旅を終えてこの原稿の仕上げにかかっていた時、私は上野の不忍池に蓮の花の現物を見に行ってきた。それは偶然食べたコンビニ弁当にレンコンが入っていたのがきっかけだった。薄く輪切りにされた丸いレンコンの形が、そのまんまスポーク式車輪そのものの形である事に気づいたのだ。一瞬笑い話と流してしまいそうになって、私はハタと立ち止った。これまでの経験上、形の連想は古代インド人の得意とする所ではないか。これは蓮華が実際に池に生えているところも見る必要がある。私はそう考えた。

輪郭と内部の穴の配置が車輪を思わせる

実は、古代インドではこんなにも蓮華が重要な意味を持っていたのに、現代インドでは水蓮はどこにでもあるが、蓮の花を見る事はほとんどできない。それはおそらく文明の進展と共にやってきた乾燥化が大きな理由だろう。比較的湿潤なモンスーン・アジアに近い気候を保つベンガルやオリッサ地方を除いて、現在のインド亜大陸では蓮の存在感は極めて希薄だった。

これまでインド全土をくまなく旅してきた私も、考えてみれば蓮華が実際に池で咲いている姿を見たことはなかった。もちろん今までに蓮の花そのものを見た事はある。だが蓮という植物の全体的なイメージは漠然としていた。そこで百聞は一見にしかずと、ごく軽い気持ちで不忍の蓮池を訪ねたのだった。だがいざ本物の蓮を目の当たりにした時、私はあまりにあっけない謎解きに、またしても呆然と立ち尽くす事になった。

ハスという植物は、水底の地中に埋まる根と、葉柄という茎によって立ち上がる葉っぱと、花柄という茎によって立ち上がる花という三つ部分で成り立っている。根の部分にはレンコンが育ち、そこから伸びる一本の葉柄に一枚の葉が、一本の花柄に一輪の花が開く形になる。

最初に驚いたのが、真っ直ぐにすっと直立する茎だった。それは長さ12メートルほどもあり、長さと言い太さと言い、そのまんま折り取って手にすれば棒術に使えそうなくらい、ダンダそのものだったからだ(ただし、表面には細かいとげがたくさん生えており、握ったら痛いだろう)。


その先にひとつ咲く花の輪郭は、実は車輪とはあまり似ていない。だが葉っぱについては、中心から放射状に展開する葉脈と丸い輪郭を持ち、一見して車輪のデザインそのものの形をしている事が分かった。茎と合わせれば、それは正に車軸と車輪の写しと言ってもいい。車輪と重なるのは、レンコンの輪切り面だけではなかったのだ。

そして、葉っぱがまだ水中から伸びたばかりの若芽を発見した時、私は思わずわが目を疑って間の抜けた笑い声を上げてしまった。まだ展開する前の若葉の姿が、閉じたヨーニ、つまり女性の外性器そのものの形をしていたからだ。

車輪を思わせる蓮の葉


展開する前の若葉

私はこの三つの呆れるほど単純な事実に、戸惑いを隠せなかった。おそらく古代インドの人々は、蓮葉とレンコンをそのデザインの類似性から車輪と重ね合わせ、美しい花とその中心に種を宿す花托、さらに開く前の若葉の形からそこに女性性の表れを見出した。そして、全体としての蓮という植物を、車輪の『神性(スピリット)』が女性性を担って顕現した表れと見たのだ。そう考えれば、夫であるヴィシュヌが車輪を掲げ、妻であるラクシュミが蓮華に囲まれている事も容易にうなずける。

閉じたヨーニとしての若葉が、展開すると車輪の形になるという事実は、シャクティ思想においてヨーニが車輪に例えられた事実とも符合する。また性典カーマ・スートラでは、性的に最上級の女性を『蓮女』と称賛し、女性のオーガズムが高まるプロセスを『ひとたび愛の車輪が回転し始めたら~』とも表現している。


さらにこの仮説の決定的な証拠とも言える地母神像が、実際に存在するのだ。それは華輪の顔を持った女性が、大きく開いた足の中心にヨーニをむき出しにするという造形で、驚くほどストレートに女性性と蓮華との重なりを強調していた。

ヨーニを露わにする豊穣の地母神。
大きく欠損しているが、顔は華輪でできている。

だがそれは、あまりにも単純な発想に過ぎた。それはここにこうやって書くことにためらいを感じるほどに単純だった。こんなにも素朴な連想から、あんなにも複雑深遠な思想が生まれたのだろうか。私は古代インド思想が持つこのあまりにも大きなギャップに、眩暈に似た当惑を禁じ得なかった。

2011年9月25日日曜日

世界の中心にあって、それを展開せしめるスメール

ブッダの死後大乗化していった仏教は、本来のブッダの教えから離れて様々な哲学思想を展開していった。そのひとつに須弥山の世界観がある。

倶舎論によれば、大宇宙であるところの虚空にぽっかりと気体でできた風輪が、その大きさは文字通り宇宙大の広がりを持って浮かんでいる。その上に太陽の直径の六倍ほど、800万Kmを超える直径を持つ液体の水輪が浮かび、その上に同じ直径で固体の金輪が浮かんでいる。金輪の上は塩水の海によって満たされ、その周囲を囲むように鉄囲山が取り巻いている。広大な海の中心には須弥山が聳え、その周りは七金山によって環状に囲まれている。その周囲にはやや離れて四つの島大陸があり、南側にある閻浮提(えんぶだい)が私たちの住む世界だ。島の底は海中で金輪の表層とつながって、その金輪の地下深くに地獄界がある。須弥山には帝釈天(インドラ)や梵天(ブラフマー)を始めとした神々が住み、その中腹を太陽(日天)と月(月天)が回っているという。


倶舎論を元に描かれた須弥山の世界観概念図

煩雑に過ぎるのでこれ以上の詳細な解説は控えたいが、この概念図を見ると、それが明らかに車輪をベースにしていて、しかもシヴァ・リンガムとも酷似している事に気づくだろう(ちなみに仏典に登場するアジャータシャトル王の時代、ラタ戦車の木製車輪の周囲には鉄製のタイヤがはめられていた事が遺跡などから分かっている。須弥山の大海を囲む鉄囲山はここからの連想ではないだろうか)。

シヴァ・リンガムとの相似は形だけではない。マハラシュトラ州を中心とした西インドで広く用いられているシヴァ・リンガムのデザインには、しばしば太陽神スリヤと月神チャンドラがあしらわれている事実がある。この事から、シヴァ・リンガムの造形が成立する過程で、この須弥山のイメージと相互に深く関わり合っていた事がうかがい知れるのだ。


月と太陽をあしらったシヴァ・リンガム

さらに面白い事実がある。この須弥山の世界観は、ヒンドゥ教やジャイナ教においてもメール山(スメール)の名前で共有されている(仏教の須弥山はスメールの漢訳)のだが、ヒンドゥ教版のメール山は、あのシュリ・チャクラが立体化したものだったのだ。このシュリ・チャクラ、シヴァのパートナーである神姫のデヴィ・シャクティを象徴するヤントラであった事は前に説明した通りだ。

シュリ・チャクラが立体化したメール山

察するに、本来はスメール世界観のデザインであった車輪ベースの形を、シヴァ派の人々がシヴァの中心性を表すために流用してしまった。しかしメール山そのものを無くす訳にはいかない。そこでシヴァのパートナーであるシュリ・チャクラを立体化して山にする事によって、メール山に充てたのではないだろうか。

実はこのメール山、デザイン的にはいくつかのパターンがあって、その中にストゥーパそのものとも思えるドーム型の造形も存在する。一説によれば仏教のストゥーパは須弥山を表しているとも言われ、この辺り、全インド教の思想やデザインがいかに重層的に輻輳しているかを、如実に示していると言えるだろう。


メール山のストゥーパ型バリエーション

2010年の3月、私はラジャスタン州のアジメールでジャイナ教版メール山の実物モデルを見る事ができた。それは前掲した想像図にさらにスポーク的な放射状のデザインを加えたもので、メール山の世界観が車輪をベースにしている事を明確に示すものだった。

ジャイナ教はインドでは滅びてしまった仏教を始め、古代の様々な宗教思想やデザインを、現代にまで保存継承している貴重な証言者だと言える。この実在の『メール山モデル』がシヴァ・リンガムそのものの形だった事を確認して、シヴァ・リンガムが車軸と車輪をベースにしているという仮説もまた、私の中で確信へと変わったのだった。


ジャイナ教のメール山

余談になるがこのアジメールという地名、ヒンディ語で『アジ』は『自ずから存在する者=ブラフマン』を表し、ブラフマンのメール山と読むこともできる。私はこの符合を知った時、思わず『神のリーラ』を思って苦笑してしまった。

さて、最後にここで思い出して欲しいのが、法隆寺のあの心柱だ。実は五重塔の一階部分、初重と呼ばれる広間には、心柱を囲む形でリアルな須弥山の塑像が置かれているのだ。本来ストゥーパである五重塔の内部中心に須弥山が築かれ、更にその中心から心柱が屹立している形になる。それは万有世界の中心であるスカンバの仏教版であり、中心の中心である心柱が、ブッダ(あるいは法身仏)の暗喩であった明らかな証拠だと私は考えた。

そしてその仮説は時を経ずに証明された。日本全国に古い木造の五重塔は散在しているが、中でも法隆寺と並ぶ京都の東寺の五重塔に、心柱に関する伝承が残っていたのだ。8世紀の末に創建された東寺は、その20年後に嵯峨天皇によって真言宗の宗祖・空海に下賜され、以来真言密教の根本道場として栄えてきた。そのシンボルとも言える五重塔は高さ54.8メートルで、木造の塔としては高さ日本一を誇るという。

初重内部には、法隆寺のそれと同じ造作で須弥壇と心柱が置かれている。須弥壇には金剛界四仏像と八大菩薩像が祀られているが、真言密教の本尊である大日如来の姿はそこにはない。寺史によれば、五重塔建立を直接指揮した空海本人によって、中心に屹立する心柱こそが大日如来として位置付けられたという。心柱の基壇には仏舎利が収められ、それが大日如来だけではなくその化身としてのブッダ自身をも表していた事は言うまでもない。インドから数千キロ離れた極東日本の古代建築に、御仏がスカンバであった証拠が見事に残されていたのだ。

以上見てきた様に、インド的な世界観が『中心なる車軸とその周りで展開する車輪世界』という共通する思想によって貫徹されている事実が明らかになった。それは世界の構造を云わば『チャクラ・ボディ(車輪体)』と見立てていたと言っていいだろう。


サルナート法輪精舎と後藤恵照和尚

2010年4月初旬、私は北インドのサールナートに来ていた。ここにはかつてインド放浪をしていた時最もお世話になった法輪精舎があり、いわば私自身のチャクラ意識の原点とも言える土地だった。2年振りに再会した住職の後藤恵照師は相変わらずの和尚節で私を歓迎してくれ、本稿に関する話題を二人で語り明かした。和尚さんが運営する学校の為の募金活動をする昼間、私は改めて州立博物館を訪ねブッダの初転法輪像にお参りした。そして自然な流れで隣接する鹿野園の遺跡公園をぶらつきながら、足掛け15年にわたるインドとの様々な関わりを思い返した。

ふと見上げた私の視線の先に、ダメーク・ストゥーパが立っていた。それはアショカ王がブッダの初転法輪を記念して建てたと言われるストゥーパだった。だがそれを見た瞬間、私の心にある違和感が生まれたのだ。この形はつい最近見たことがある。そして気がついた。そう、それはアジメールで見たジャイナ教のメール山とよく似ていた。ダメーク・ストゥーパはその名前を裏切るように、一般に見られるドーム型のストゥーパよりも、むしろ円筒状のタワーに近い形をしている。それが私に、世界の中央に屹立するタワー状のメール山を思い出させたのだ。

サールナートのダメーク・ストゥーパ

何だろう、この感覚は?さらに何かが引っかかる。そう思った次の瞬間、私の心は鳥となって空に舞い上がり、気がつけばダメーク・ストゥーパの天辺に立っていた。灼熱の地上とは打って変わって、そこには強い風が行き交い暑さはほとんど感じない。周りに広がるのは北インドの大平原。遠くには、遥かにかすんで円弧を描く地平線が見える。その地平線を見渡しながら視線をゆっくりと転じてゆけば、大地は地平線によって360度切り取られて、あたかも丸い円盤であるかの様に見えた。そして、その円盤の中央には、大地を貫いて頭を出したかのようなダメーク・ストゥーパが、車軸のように、あるいは巨大なリンガのように、屹立しているではないか。

私はその屹立する頂上から世界を俯瞰しながら、全てを理解していた。これこそが、古代インド人が世界を車輪のモチーフと重ねて描き出した、メール山の原風景なのだと。

頭の中のシミュレーションから我に返って、私は大きく息をついた。そうなのだ、それがストゥーパであれ大地に屹立する孤立した岩山であれ、地上から遥かな高みに登って周囲を見渡せば、大地は360度に広がる円盤以外の何ものでもない。その単純な事実に気づいた古代インド人は、自ずからこの世界を聖なる車輪と重ね合わせたのだ。

私はダメーク・ストゥーパを見つめながら、あまりにあっけない謎解きに、しばし立ち尽くすばかりだった。だがこの認識は、ある意味現代においても十分に通用する普遍性を持っていると言えるだろう。

スペース・シャトルに乗って周回軌道上の遥かな高みから地上を見下ろせば、地球はやっぱり丸いんだなと理解できる。事実としてそれは球状なのだ。しかし私たちの視覚が、両眼視によって擬似的に立体視を可能にしつつも、常に事物をある一面からしか見ることができない以上、実際には球状の地球は丸い円盤にしか見えない。それは実際には球状の太陽が、地上からは丸い円盤にしか見えないのと同じ理屈だ。だからこそ古代インド人は太陽をスリヤ・チャクラ(日輪)と呼んだ。もし北極の高高度上空から地球を片目で見下ろし、自転軸と経度線を可視化してイメージすれば、それは回転する巨大な車輪そのものに見えるに違いないのだ。




2011年9月24日土曜日

万有の中心にあって、それを展開せしめるスカンバ


万有の中心にあって、それを展開せしめるスカンバ

話は少し遡る。インド出発の日程が迫る中、改めてインド思想の淵源に没入し彷徨していた私は、そこで今まで想像した事もないような壮大なチャクラ思想のパンテオンを見出して驚く事となった。そのひとつが、大宇宙を支える『万有の支柱・スカンバ』の思想だ。

前節の流れで古い時代の仏跡データを閲覧していた私は、あのアショカ石柱に引っかかるものを感じていた。このスタンバと呼ばれる石柱、インド国章になっているライオン・ヘッドで有名だが、実はオリジナルの姿では、柱の頂上にあるライオン・ヘッドのさらに上に、法輪がひとつ掲げられていたらしい。それが構造上非常に脆かった事もあって、現在、無傷の法輪の姿はほとんど残されていないが、当時、多くのアショカ石柱の最上部にはこの法輪が掲げられていた事実が発掘調査で明らかになっている。


サンチーのアショカ石柱、復元想像図

実は同じような造形を、遺跡ではなく生きたヒンドゥ寺院で目撃した記憶が私にはあった。それは08年の初頭に訪れたカルナータカ州の州都バンガロールの市内にある、ガヴィ・ガンガダレシュワル寺院の境内に立っている何種類かのスタンバだった。


写真データは盗まれてしまい手元になかったので、私はそれを確認すべく09年の暮れにこの地を再訪した。下の写真には円盤を頂上にいただいた柱が見える。これはスリヤパナスと呼ばれるスタンバで太陽神への信仰を表していたようだが、そのイメージは復元されたアショカ・スタンバによく似ていた。そして、その手前にはもうひとつのスタンバが立っていた。この寺院はシヴァ・リンガムを祀るシヴァ寺院なのだが、ここに立つスタンバはシヴァの神器であるトリシュラ(三叉の槍)を巨大化したものなのだ。


シヴァ寺院の境内に立つスリヤパナス

同トリシュラ・スタンバ

下の絵にある様に、シヴァがその手に持つトリシュラの柄はシヴァが人並みの大きさであればダンダ、つまり棒に見える。だが神が人と同じ大きさのはずはない。それをリアルに表現しようとすれば、ダンダを巨大化してスタンバにするしかない。

右側のシヴァが持つトリシュラ

同じ構図のチャトラ版を、やはりバンガロール近郊のボガナンディシュワラ寺院で見た記憶があった。それは神室前のホールに立つ巨大な石造りのチャトラだった。これも手に持つ大きさならばその柄はダンダだが、巨大化すればそれは立派なスタンバとなる(興味深いのは、その傘の裏面に美しい華輪の彫刻が施されている事だろう)。

そしてこのチャトラ・スタンバを横倒しにすれば、それはそのまま輪軸の造形に他ならない。そこには、それが車軸であれ傘や槍の柄であれ、ダンダと呼ばれる棒は巨大化させればスタンバ、すなわち柱になるという単純な事実があった。


巨大化したチャトラ・スタンバ

この思考プロセスには私の林業経験も若干関係している。例えば植えて3~4年の杉の若木を根元から間伐して枝を落とし皮を剥けば、それはちょうど手ごろな棒、つまりダンダとなって人の歩行を支える。一方、植えて20年以上たった杉を伐って同じようにすれば、それは立派な柱、つまりスタンバになって屋根を支える。そう、ダンダとスタンバとは、その大きさや用途が若干違うものの『本質的には全く同じもの』であり、『支えるもの』という働きをも共有する。これは私だけの経験的主観ではなく、インドを含めた世界中に普遍的な真理だと言えるだろう。

スタンバは巨大化したダンダである。ならばスタンバもまた車軸でありブッダではないのか。これが連想の果てにたどり着いた仮説だった。本来のアショカ・スタンバの最上部には法輪が掲げられていたと書いた。その復元図を上に紹介したが、プレーンで真っ直ぐに伸びたスタンバと小さな法輪のバランスは、本来の車輪システムの構造やサイズ比率と比べると著しく不自然だろう。だが、この石柱の目的は、第一に高く屹立するスタンバの巨大さによって、当時の人々の心を心服せしめる事にあった。巨大なスタンバに合わせて車輪まで巨大化し、しかもそれを本来の形のまま地面に対して水平に設置したならば、おそらくその車輪は自重によって崩落してしまう。この点はナンディシュワラ寺院のチャトラ・スタンバの傘が、その柄柱とのバランス上小さすぎるのと同じ事情だ。そこでいわば妥協案として、この様な姿が考案されたと私は見る。実際、ヴィジュアル的にも本来の機能的にも、車輪は地面に対して『垂直に』立つべきなのだ。

この『スタンバ=ダンダ』であり、それは同時に『車軸(アクシャ)=神仏』であるという仮説を検証するために、再び私は古のヴェーダ神話にまで遡っていった。

思い起こしてみれば、ヴィシュヌ神が世界を支える神として崇められていた事実は、すでにリグ・ヴェーダの中に明らかだった。それは具体的にスタンバというイメージと結びついていたのだろうか。

後のヒンドゥ教においてヴィシュヌ神像がダンダを持つとき、その像がせいぜい人並みの大きさであるために私たちはそれを棒だと錯覚する。だが巨大化したシヴァのトリシュラ・スタンバを思い出そう。天と空と地の三界を三歩でまたぐヴィシュヌ神の大きさを考えれば、その手に持つダンダもまた、人間の目から見ればあたかも天地を貫く巨大な柱そのものではないか。言い換えれば、ヴィシュヌが本来的には世界を支える柱である事を表すために、その手にダンダを持たせたと見る事も出来るだろう。

この世界の柱としてのヴィシュヌというイデアを象徴する遺跡が、実は仏跡で有名なサンチーの近く、ヴィディシャの郊外に存在した。そこには地元の人々から親しみを込めてカンブ・ババ(柱の神)と呼ばれる一本の石柱が屹立し、ヴィシュヌの乗り物がガルーダである事から別名ガルーダ・スタンバとも呼ばれている。

これは紀元前150年頃にギリシャからインドに大使として赴任していたヘリオドロスによって建てられたもので、当時、ギリシャ人の間にまでヴィシュヌ信仰が広まっていた事実を示して興味深い。ちなみにこのヘリオドロスという名前は『太陽(ヘリオ)の贈り物(ドロス)』を意味し、本来太陽神であるヴィシュヌを自らの守護神としたのだろう。その造作は、アショカ石柱に比べると大きさや造形技術においてすこぶる見劣りがするが、それでもなお、ヴィシュヌ神が世界のスタンバとして信仰されていた最古の証拠として極めて重要なものだった。


ヴィディシャのガルーダ・スタンバ

そしてこのヴィシュヌをスタンバと同一視する習慣は、現代にいたるまで伝わっていたのだ。改めて写真データを見直してみると、あのプーリーのジャガンナート寺院をはじめ、およそヴィシュヌ神を主神として祀るほとんどの寺院に、この石造りのスタンバが設置されている事実を確認することができた。私はこれまで数えきれないほどジャガンナート寺院を訪ねているが、私が気づかなかっただけで、それはそもそもの最初っからそこに立っていたのだ。

ジャガンナート寺院のガルーダ・スタンバ

このガルーダ・スタンバを前提に改めてアショカ・スタンバについて考えると、やはりこれはブッダそのものを表していた、という印象が強い。ナガルジュナ・コンダのストゥーパやチベットのチョルテン、法隆寺の五重塔など巨大な建造物では、本来的には車軸であるものが『柱』となってその中心に聳えていた。そしてその中心の柱が、法輪の車軸としてのブッダそのものである可能性についても検討してきた。ならば、アショカ石柱はその車軸である柱を分かりやすく建物の外に取り出して、ブッダそのものを象徴する単立のモニュメントとして建てられた、とは考えられないだろうか。いやそれは歴史的順序で言えば、本来単立のスタンバとして崇拝されていたブッダを、楼屋の中に囲い込んだものが五重塔だと言う方が正確かも知れない。

また前に述べたように、ブッダの法輪とヴィシュヌのスダルシャン・チャクラは同時進行的ライバル関係にあった。一方、アショカ石柱はヴィディシャのガルーダ・スタンバに先駆けて建てられ、後者が前者を模倣する形で建てられたという事実がある。ヴィシュヌがスタンバと同一視されたのは、あるいはライバルであるブッダがすでにスタンバと同一視されていた事の模倣とも考えられるのだ。

いやこの言い方はやはり適当ではない。本来ならリグ・ヴェーダですでに世界を支える者として崇められていたヴィシュヌこそが、スタンバの元祖だというのは間違いないのだ。それはダンダやチャクラのシンボリズムに関しても同様だ。より正確には、元々アーリア・ヴェーダのヴィシュヌに由来するものを、ある時代に仏教徒がブッダを象徴するシンボルとして借用し大々的にフィーチャーした。それがアショカ王の権勢に乗ってインド世界全域に広まり、やがてヒンドゥ教の復興と共に、改めてそれがヴィシュヌのものとして復活していった。それが正しい順序だろう。

この関係はシンボルだけではない。ヴィシュヌの化身であるラーマは、仏伝ではシッダールタの前世の姿として描かれている。またヴィシュヌの9番目の化身として、ブッダ自身が非常にいびつな形で取り込まれている事実もある。アショカ王の時代、すでにブッダをヴィシュヌと重ね合わせる思想があったのかも知れない。ブッダとヴィシュヌは色々な意味で、複雑に錯綜したライバル関係にありながら歴史を綾なしてきたと見るべきだろう。

仏伝によれば、後に覚りを開いてブッダになるシッダールタは、その誕生の瞬間、七歩歩いて天と地を指さして『天上天下唯我独尊』と宣言したという。直立して右手で天を、左手で地を真っ直ぐに指さしている誕生仏のイメージは、正に『唯一無二の柱』を彷彿させる。


誕生仏

そしてこの構図、怒れるインドラが大雨を降らした時、ゴーワルダン山を片手で持ち上げて傘として、人々をその雨から守ったというクリシュナ神話の構図とも重なり合う。これなども当時の仏教徒がブッダを、ヴィシュヌ=クリシュナ神と同じような三界(法界)を支える支柱と考えていた事の表れと見るのだが、どうだろうか。

ゴーワルダン山を片手で持ち上げるクリシュナ。
彼は世界の柱であると同時にチャトラの柄である。

私は前に、『世界の車軸としての神』という普遍的な思想があった、と書いた。ならばそこには当然、ブラフマーやシヴァを世界のスタンバに見立てる証拠も残されているはずだった。この世界あるいは大宇宙を巨大な車輪と見立てるならば、それを支える車軸は人間の想像を遥かに超えた壮大な柱となる。そして事実はその通り、ヴェーダやプラーナの諸文献のあちこちにその様な記述を見出すことができたのだ。

紀元前千年前後になると、リグ・ヴェーダ的な多神教人格神群に飽き足らなくなったインド人は哲学的な思索を深め、ついに大宇宙の唯一者であり創造の根源であるブラフマンの思想を確立する。その原風景とも言えるアタルヴァ・ヴェーダの中に、万有の支柱『スカンバ』が登場する。

「至高なるブラフマン、その足元は地を、その腹は空を、その頭は天を支え~、このスカンバは広き六方の世界を生み出し、宇宙の全てに浸透する(アタルヴァ・ヴェーダ、スカンバ賛歌)」

スカンバとはスタンバの別綴りで、一般に柱を意味する『カンブ』に神的美称である『ス』を冠した名詞だ。ここでスカンバは『カーラ(時間、これが車輪と重ね合されていた事を思い出そう)』などと共に宇宙の根本原理として称えられ、ブラフマンと同一視されていた。そしてこの宇宙はブラフマー・チャクラ(梵輪)の展開と表現され、ブラフマンは文字通りこの世界の巨大な車軸と位置付けられていた。

同じアタルヴァ・ヴェーダの中には、『偉大なる神的顕現(スカンバ)は万有の中央にありて、~ありとあらゆる神々は、その中に依止す、あたかも枝梢が幹を取り巻きて相寄るがごとく(辻直四郎訳)』という表現もある。この辺りは前述したブッダの菩提樹とも関連して非常に興味深い。つまりそこには、ダンダである幹をスカンバとも見立てている事実があるからだ(そもそも柱とは木の幹から切り出したものである!)。

それにしてもここに見るスカンバ観、リグ・ヴェーダのヴィシュヌ観と余りにも酷似していないだろうか。このブラフマンというコンセプトは非人格的な中性名詞であったが後に
人格神化し、台頭するヴィシュヌやシヴァなどのヒンドゥ人格神群と共に男性名詞のブラフマーとしてトリムルティの一角を担う事になる。

そしてサーンキャ哲学で紹介したアートマンとこのブラフマンが、後期ヴェーダのウパニシャッド思想において同一視されて『梵我一如』の思想が生まれる。アートマンがプルシャであり車軸であったと前提すれば、『ダンダ=車軸=アートマン』と『スカンバ=万有の支柱=ブラフマン』、そして『アートマン=ブラフマン』として、すべての文脈が見事に合致する事になる。そしてヒンドゥ教の最も聖なる音節(アクシャル)である『オーム』が、カータカ・ウパニシャッドの中で『最高者』ブラフマンと呼ばれ、『世界の最も優れた支柱』に例えられていた事実が、ここにおいて極めて重要な意味を持って来るのだ。

ラタ戦車の片輪を浮かせて回転させれば、地面との擦過音などの雑音を除いた純粋な車輪の回転音を聞くことができる。その製造工程が精緻であればあるほど、車軸と車輪が交わるところに生まれる抵抗は小さく、その摩擦音は精妙になる。私はそれを実際に聞いたことはなく想像にすぎないのだが、ひょっとしてそれは、かそけき神の韻律を思わせる『ウゥォォォン』という神秘的な共鳴音ではなかっただろうか。

やがてインド思想の成熟と共に車軸はスカンバになり至高なる神となり、車輪は梵輪となり展開する現象世界と重なり合った。聖音オーム。それは車軸なる神と車輪なる世界が交わるところに生まれる、大宇宙の通奏低音だったのだろう。

余談になるが、前にインド武術のひとつとして紹介した『マラカンブ』が『戦士の柱』だったことを思い出す時、面白い符合に気がつく。地面に立ったマラカンブ柱をブラフマン=アートマンである中心軸に見立て、その周囲を現象世界(サンサーラ)に属する人が車輪のように回りながら様々なポーズを展開していくと考えれば、それはすなわち、ヴェーダ思想の体現そのものと解釈することも可能なのだ。

最後にシヴァ神の場合を見てみよう。シヴァ派の神話によれば、ある時ヴィシュヌ神とブラフマー神の間で、どちらが世界の創造者であるかという口論が起こったという。だがお互いがお互いに我こそはと主張を譲らず結論が出ない。そこに突然、巨大な炎のリンガが現れた。その頂は天の果てに消え、その根元は海の深みに沈んで見えない。そこでこのリンガの果てを調べるため、ブラフマーは白鳥に変じて天に上り、ヴィシュヌはイノシシに変じて海に潜った。だが二人ともリンガの端を発見できず、それが無始無終の大いなる柱であると確認して恐れ慄くばかりだった。すると突然、シヴァ神がリンガの柱を割ってその姿を現したのだ。ヴィシュヌとブラフマーはシヴァの偉大さに脱帽し、彼こそが宇宙の創造者であり、至高の神であると認め礼拝した。それ以来、寺院の中でシヴァ神はリンガとして崇められるようになったと言う。


リンガを割って現れるシヴァと左右で礼拝するヴィシュヌ、ブラフマー

この神話と符合するように、前出のスカンバ賛歌には『スカンバ(リンガの柱)の形をとったシヴァは、ヴィシュヌとブラフマーに祝福を与える』として、シヴァがスカンバと同置されている部分がある。さらにシヴァ派の経典には、『三界のすべてを支える万有の支柱であり、一房の髪に月が光り輝く至高のシヴァ神に帰依します』とシヴァ神を称えるマントラ(真言)さえ存在するという。炎のリンガはその天と地を貫くイメージ通り、巨大なスカンバそのものだったのだ。このスカンバが大宇宙の中心軸であり、リンガもまたシヴァ・リンガムの造形における車軸だったことを考えた時、これらの言葉は一層深い意味を持って迫ってくる事だろう。

聖音オームは、すべてのヒンドゥにとって重要な意味を持っているが、中でもこのシヴァ神と最も密に関わり合っている。現存するヨーガ流派の多くがシヴァ神を主神として崇めており、オームのマントラは特にヨーガの修行、中でもプラーナヤーマという呼吸法と密接に結びついているからだ。ヨギやリシと呼ばれる修行者たちは、シヴァ神と同じようにヒマラヤの山中に結跏趺坐し、繰り返しオームを唱えて瞑想にふける。

聖音オーム。あるいはそれは、車軸なるシヴァと現象世界なる神姫シャクティが交わるところに生まれる、『愛の睦言』だったのかもしれない。

『世界の中心で愛を叫ぶ』という映画がヒットしてから久しいが、そもそも人は何故世界に『中心』があると発想する事が出来たのだろうか。いやそれ以前に、人は何故、『中心』という概念そのものを獲得することができたのだろうか。

宗教学者のエリアーデによれば、この世界に中心軸『アクシス・ムンディ』が存在するという思想は全ユーラシアに普遍的に存在し、その広がりの地理的中心は中央アジア周辺だという。これをスポーク式車輪の分布の拡大と重ね合わせたら何かが見えては来ないだろうか。

板を張り合わせた旧型の車輪に比べ、スポーク式車輪は高度に精巧なバランスの上に成り立っていた。そこで求められるのは何よりも厳密な中心性だった。それは高速で疾走するラタ戦車の場合にはより顕著だっただろう。もし中心がずれて力学的なひずみが溜まれば、パーツを組み上げた繊細なスポーク式車輪は、あっけなく分解してしまう。アーリア人はそのような車輪を開発し、何よりも重要な道具として日々密接に関わりを持っていた。彼らはその製造や使用の過程で、いかに中心というものが重要であるかを強烈に意識せずにはいなかったのだ。そして何より、この車輪はラタ戦車の威力をもって彼らの生活に革命を起こした神威の象徴でもあった。そんな彼らが、車軸を中心に回転する車輪をこの世界と重ね合わせて、この世界にも車軸に相当する中心軸(としての神)『アクシス・ムンディ』が存在するはずだと考えたのは、ごく自然な成り行きではなかっただろうか。

 やがてインドにおいて、この『世界の中心軸』というコンセプトは、もうひとつ、余りにも稀有壮大な『メール山』の万華鏡世界観を生み出すに至る。


2011年9月23日金曜日

法輪の中心にあって、それを転回せしめるブッダ

法輪の中心にあって、それを転回せしめるブッダ

次に私が焦点を合わせたのは当然のように仏教だった。ヒンドゥ教において、車輪の中心にありその回転を支える車軸=ダンダが至高の神を表すのならば、それは当然、仏教においてはブッダ(大乗においては法身の仏)でなければならない。つまり車軸はブッダであり、ダンダはブッダなのだ。だがそれを証明できるデータが存在するだろうか。私はそもそもの原点である、古代仏教におけるブッダのシンボリズムを再検討してみた。

サンチーのストゥーパが華やかに荘厳されていた頃、ブッダは未だ人の姿をした仏像としては描かれず、様々な代用デザインによって象徴されていた事は前に書いた。それは法の車輪やブッダの舎利(遺骨)を収めたストゥーパ、その下で覚りを開いた菩提樹、聖なるチャトラ(傘蓋)、清浄なる蓮の華などだった。以前と違ってすでに車輪と『車軸』というイデアを獲得した私の目には、やがてこれらの表象に一貫するある特徴が明らかに浮かび上がって来たのだ。

最初に法輪から見てみよう。ヒンドゥ教の場合と同じように、私はこれまでそこに車軸の存在を意識したことはなかった。そこで改めて様々な画像データを詳しくチェックしてみると、一部の例外を除いて、そこには目立たないながらも必ず車軸が描かれており、車軸が省略されて空洞のハブ穴が描かれたものはほとんどなかった。そもそもブッダによって法の車輪が転じられたという事は、ブッダが主語であり法輪は目的語である。つまり両者は明確に別々のものだと理解されるべきだろう。今までの流れから見れば、法の車輪が転じられたのならば、その中心にあって回転を支える車軸こそが、当然主語であるブッダという事になる。

この件に関してはヒンドゥ教の場合と比べて強力な証拠は発見できていない。だがシュンガ朝の時代、BC1世紀前後のバルフートの遺物に描かれた法輪信仰に興味深い絵柄があるのでここに紹介したい。

ストゥーパの欄楯彫刻の中で、人々によって礼拝されている法輪の中央にやや誇張された大きい車軸が描かれ、その上に花輪と思われる飾りが献供されている図柄が確認できるのだ。これは現代インドでも普遍的に行われている神々への供養であり、一般には神像の首に花輪がかけられる。この誇張された車軸とそこに供養された花輪のモチーフは、当時の人々が車軸をブッダそのものだと認識していたひとつの表れではないかと私は思う。同じ図柄は同時代のサンチー第二ストゥーパにも存在し、その地理的距離から言っても、北インド全体で同じ様な信仰が共有されていた可能性が高い。

バルフートの法輪信仰

『車軸=ダンダ』との関連でもうひとつ、日本の仏教について取り上げたい。日本では中世頃から仏教が大衆化し、その中で聖と呼ばれる行者たちが人々の人気を集めた。そして彼らの多くが錫杖と呼ばれる棒を手に全国を行脚したことが知られている。調べてみると、この錫杖は仏陀の知恵を象徴すると言い、真言密教の四国八十八か所の巡礼において、お遍路さんがその手に持つ杖が同行二人の弘法大師を表すのも同じ文脈だろう。ここに潜在している思想こそが、車軸=ダンダ=ブッダだと私は睨んでいる。

棒を手に遊行する行者。これと同じイメージを以前にも見た記憶がある。そうそれはヒンドゥのサドゥが遊行する姿であり、ガンディ翁が遊行する姿だった。そしてその手に持つダンダは、単なる神の属性ではなく神そのものだったはずだ。

実は歴史的に見ると、一所不住の遊行をその修行生活の根幹に据えたのは原始仏教が最初であり、それ以前のバラモン教の中にはそのような要素は見受けられない。ならば本来、ダンダを持って遊行するスタイルを最初に確立したのも、仏教僧侶だった可能性が高いのだ。そしてその手には、ブッダ自身を象徴するダンダが同行二人の相棒として握られていた・・・。

実はブッダを表す尊称『世尊』は『バガヴァット』の漢訳であり、ヒンドゥ・バクティの起源とも言えるバガヴァッド・ギータのバガヴァット(神=クリシュナ)と全く同じ言葉である。おそらくそれはブッダの死後、偉大なる教主を慕って生み出された信愛(バクティ)の習慣ではなかっただろうか。その流れが遥か遠くの日本にまで伝わって、錫杖を手に遊行する聖の姿になったとしたら、何とも壮大なダンダつながりではないか。

そしてもう一つ、あまり知られていないが、日本の地蔵信仰の中に檀陀(ダンダ)地蔵というお地蔵様が存在する。これは六道輪廻の最下層の地獄界で、苦しみに喘ぐ衆生を身をもって救い出す菩薩衆の一人で、手に一本の錫杖を持った姿で表される。これなどは法身の仏が持つ無量の慈悲を、一本のダンダによって表していた可能性が高いと言える。一本の棒は、それで人を打つこともできれば、それを差し伸べて溺れる者を助ける事も出来る。一方で厳格な懲戒を表していたダンダが、一方でヴィシュヌ教とも重なりつつ寛容なる許しと救済を意味していたとも考えられるのだ。

全国津々浦々の路傍に立つお地蔵様の多くが、その手に一本の棒を持っている。あなたの家の近くにも、そんなお地蔵様がダンダと共に立っているかも知れない。

次にチャトラ(傘蓋)について考えてみよう。ひとたび車軸を垂直に立てるという発想を得ると、それはチャトラの姿と明らかに重なり合う。手で持つ柄が車軸であり、その上で展開する傘が車輪だ。

私が知る範囲ではチャトラには二種類ある。傘の部分がまっ平らなチャトラはそのまんま車輪と車軸を立てたような姿で、これは初期の仏教美術などに多く見られる。もう一つは傘の部分がドーム状に湾曲したもので、現在私たちが日常で使用しイメージする傘に近い。

平らなチャトラ

ドーム状のチャトラ

どちらにしても、これらチャトラの柄を車軸と見立てれば、傘は車輪であり、その中心から骨が放射状に展開する構造デザインは、スポーク式車輪とぴったりと重なり合う事が一目瞭然だった。

このチャトラは他のアイテムと共に、現代ヒンドゥ寺院でも聖なる神器として継承されている。特に南インドのヴィシュヌ系寺院で盛大に祝われるヴァイクンタ・エカダシという祭りでは、境内を練り歩くご本尊のヴィシュヌ神像と共にこのチャトラを持ったバラモンが随行し、その両手で捧げ持ったチャトラの柄を回転して、傘をくるくると回す儀式が存在する。人は誰しも子供の頃に傘を背中で回して遊んだ記憶があると思う。傘を車輪の様に回すという行為は、私たち人間にとってごくごく自然な発想だと言えるだろう。

次にブッダがその下で覚りを開いた聖なる菩提樹を見てみよう。それは一本の幹によって支えられた上に枝葉が樹冠となって広がっている。樹冠を真上から概念的に見れば、中心である幹から枝が放射状に展開し全体として円形のバランスを持っていて、チャトラと全く同じ構造デザインをしていることに気づく。

そして聖なる蓮の華もまた、水中からスッと立ち上がった一本の茎に中心を支えられて、その上で車輪のように華開く構図は全く同じものだった。

さらにチャマルと呼ばれる払子(聖なるハタキ)についても、柄を持って回転させて房毛を遠心力で円形に展開させる儀式がヒンドゥ教やシーク教に存在する事実がある。


れらの符合はもはや偶然の一致を超えている様に私には思えた。そしてそれを裏付ける事実がそこにはあったのだ。

基本に戻って『ダンダ』の意味を辞書で調べ直してみると(ダンダにはで始まदडで始まるडंडの二つがあるが、煩雑になるのでここでは一括りでダンダとして扱う)、基本的な意味である『棒』や懲罰以外に、植物の茎や木の幹、そして道具の柄という意味が存在したのだ。聖なるシンボルである車輪の車軸、チャトラ(傘蓋)の柄、菩提樹の幹、蓮華の茎、これらの全てが、『ダンダ』というキーワードを共有していた。これは一体何を意味するのだろうか。

私が今まで読んだインド思想に関する一般的な説明では、チャトラがブッダを象徴するのは、本来王族など貴人の上に差し掛ける日よけの傘が転じて、偉大なるブッダを象徴する様になったというものだった。だがインドという酷熱の大地では日傘はありふれた日常の道具であり、それだけでは弱すぎる。

繰り返して言うが、ヒンドゥ思想において『ダンダ』は神であり、それは当然、仏教的文脈ではブッダ、あるいは大乗的に言えば法身の仏となる可能性が高い。ダンダ=車軸がブッダであり、それに支えられて転ずる車輪が仏法であるならば、チャトラの場合は柄(ダンダ)こそがブッダであり、それに支えられて展開するキャノピーが仏法を表す事にならないだろうか。仏に支えられて開かれた法の傘が強い陽射し(苦)を遮り、功徳(救済)という癒しの日陰を人々に差し掛けたのだ。

それは当然、ヒンドゥ教的文脈においては神の恩寵を表す。ここで思い出すべきは、インドラが降らせた怒りの豪雨から人々を守るために、ゴーワルダン山を傘として持ち上げたというクリシュナ神話だろう。その光景は、正に傘の柄(ダンダ)としてのクリシュナを表している。

それは菩提樹についても同じことが言える。本来はその下でブッダが覚りを開いたことから、菩提樹がブッダ自身を象徴する様になったという解釈だった。だが菩提樹の『幹』こそがダンダであり同時にブッダであるならば、その意味は微妙に違ってくる。

一本の幹に支えられた大木の樹冠という表象は、強い日差しや雨から人々を守るチャトラ(傘)と見事に重なり合い、同時に樹木が花を咲かせ果実を実らせ、鳥などの小動物から人にいたる生き物に恵みを与える『生命の樹』とも重なり合う。それは仏に中心を支えられて展開する仏法が、仰ぎ見る樹冠の高みで枝葉が繁茂する様に興隆し、人々の心の拠り所となり心の糧を与え、人生の苦からの避難所となる姿を象徴的に意味していたと考えられるのだ。

蓮華についても同じ事が言える。『茎(ダンダ)』であるブッダに支えられて、その上で清浄なる法の華が咲き誇り、その妙なる香りは世界の隅々にまで広がって、人々の心を潤していく。それは文字通りブッダにその中心を支えられて華開く、『妙法蓮華(サッダルマ・プンダリーカ)』そのものを表していたに違いない。

これらの仮説すべてが正しいとはにわかには判断できない。けれどダンダという言葉をキーワードに、これらのシンボルを検討し直す事によって得られた新たな意味世界は、私にとって驚き以外の何ものでもなかった。

では最後のシンボルであるストゥーパはどうだろうか。これについては特に印象的な記憶がある。あの盗難事件によってデリーに缶詰めになっていたとき、私は毎日日本山のストゥーパを仰ぎ見ていた。そして思ったのだ。そう言えばこのストゥーパも円形をしていると。普段下から見上げている時はドーム状の形しか意識に上らないが、頂上に五重のチャトラを掲げた姿を真上から見れば、それはまさしくチャクラ・デザインそのものだった。だが一般にストゥーパのドームはプレーンな姿をしており、そこにはスポークに相当する構造・デザインは見当たらない。ここまでがインド再訪以前の思考過程だった。

日本山デリー道場のストゥーパ

200911月半ば、私はこの疑問を解決するきっかけを求めて、南インドのナガルジュナ・コンダを訪れていた。ここはアマラヴァティについで西暦3世紀ごろイクシュヴァク朝の下で仏教が栄えた土地だった。当時ここには世界でも有数の仏教大学があり、アジア各地から留学僧が集まったという。それは仏像を造形表現として持たない時代から、仏像がその表現の中心へと移行する時代の事で、この地独特のストゥーパ文化が花開いた。これまでインドの主だった仏跡を訪ねてきた私にとって、ここは最後の未踏の地でもあった。

ベースとなるマチェルラの町に宿を取った私は、翌日雨季のどんよりした空の下、まずはナガルジュナ・サーガルへ向かった。このサーガルとは湖の事で、遺跡を含めた広大な土地がこのダム湖の下に沈んでいる。そして発掘された遺構は、水没を免れた小高い丘、現在は島となっているナガルジュナ・コンダに移設された。のどかな客船に乗って社会見学の学生たちと一緒に島に渡った私は、ここでど真ん中とも言える事実を発見したのだ。

小降りだった雨は、島に渡るとすぐにどしゃ降りに変わっていた。私は野外展示を後回しにして駆け込む様に博物館に入った。人の姿をとったブッダ像と仏伝に即したストーリー性豊かな彫刻表現、当時のストゥーパ崇拝をリアルに記録したパネルなど、どれも素晴らしい展示だったが、その中に遺跡の全体像を俯瞰する立体ジオラマの小コーナーがあった。いかにも地味なその小部屋に期待もせずに入っていった私は、のっけから脳天をどやしつけられる様な衝撃に見舞われていた。

そこにあったのはレンガの基礎だけが発掘されたストーパの基壇だった。それが、見事なスポーク式車輪の形をしていたのだ。ストゥーパの造形の内部に、車輪のイデアが文字通り隠されていた!私はあまりの驚きに声が出なかった。残念ながら博物館内は写真撮影禁止だったが、受付で販売していた考古局のブックレットの中にこの件に関する解説と図版があったので引用しよう。

ストゥーパ8の基礎構造

「一般にレンガを敷き詰めて建てられた北インドのストゥーパと違って、ここナガルジュナ・コンダのストゥーパはハブ、スポーク、タイヤなどを完璧に備えた車輪の基礎プランによって建てられている。レンガで造られた放射状の擁壁と擁壁の間は土で埋められ、ドームの外壁はレンガによってすべて覆われる。平面プランとしては車輪のスポークである擁壁は立体的なドームとなった時には巨大なアンブレラの骨組みとなってストゥーパを構造的に支える」

この報告のオリジナルは、1936年当時セイロン(現スリランカ)の考古局長官であったイギリス人A.H.ロングハーストによって書かれたものだが、明らかに彼はここで、このストゥーパの基礎プランが車輪とチャトラをベースにしている、と考えていた事がわかる。

だが一般に円形ドーム状の建造物を建てる場合、その基礎として放射状の支持構造を用いるというのは極めて自然な発想で、そのことだけを持って、これが車輪やチャトラをベースしている、という明らかな証拠にはならないだろう。だが次のマハ・ストゥーパの基礎プランを見た時に、ロングハーストの仮説は私の中でよりリアリティを増したのだった。

ここナガルジュナ・コンダの遺跡は大学と僧院が同居した複合施設なのだが、その広大な敷地のあちこちに小ストーパが点在していた。そしてそのすべてが4本から12本(すべて偶数本で実際の車輪におけるスポーク数とも重なり合う)のスポーク構造の基礎プランを持っていた事がわかっている。中には明らかに卍の形をした基礎プランも存在し、それが単なる物理構造ではない事を主張して非常に興味深い。

そして、メインとなる巨大なマハ・ストゥーパの基礎プランは、それらとは一線を画した重層構造をしていた。おそらくそれはサイズの問題が主な理由で、支持構造としての強度を高めるためもあったのだろう。その基礎プランはそれぞれが隔壁によって区切られた三重の同心円構造だったのだ。

マハ・ストゥーパの基礎プラン

だがそのデザインを見た瞬間、私はまったく違う場所で見た別の図柄を思い出していた。

カイラサ寺院屋根上の華輪

それは上に再掲した、カイラーサ寺院の屋根に見られる華輪デザインだった。比べて見れば一目瞭然なのだが、カイラーサ寺院の華輪デザインは内輪と中輪、中輪と外輪の花弁の軸が交互にずれており、その構図はそのままマハ・ストゥーパの基礎プランと重なり合うのだ。同じ華輪のデザインは、カルカッタのインド博物館に展示された、ガンダーラ地方のストゥーパの表面にも施されており、その他、インド全土の吉祥華輪においても遍く共有されている事実がある。

ガンダーラの華輪ストゥーパ

この時代、聖なる車輪と蓮の華輪が一体視されていた事を前提にすれば、ロングハーストが言うように小ストゥーパの基礎プランは法の車輪を、さらにマハ・ストゥーパの基礎プランは蓮の華輪をベースにしていた可能性が高いと言えるだろう。華輪や車輪の基礎プランと立体化したチャトラの結界によって上下を挟むことで、その内部空間(実際にはすべて土で埋められていた)は完全に聖別され、ブッダや高僧の舎利が持つ法力を永遠に保存する密閉カプセルとなった。

確かに北インドで発掘された他のストゥーパではチャクラ・デザインとの関連性を指摘できる様な証拠は挙がっていない。だが、地理的にも相当離れた複数地点でデザインの符合が見られる事から、この仮説は十分以上の信憑性を持っていると私は判断している。

仏教が滅びると共にそのストゥーパ文化もインドでは滅んでしまったのだが、アショカ王の時代から続く仏教国としての長い歴史を持つスリランカ、密教が伝わったチベットやネパールなどでは、現在に至るまでこのストゥーパ文化が継承されている。私はかつて、アジアを放浪した時にネパールとスリランカを訪れて実際にストゥーパも見ている。そしてチベット仏教ついては、亡命政府のあるダラムシャラーをはじめインド各地で多くの寺院を見ることができる。それらに加え、ネットを渉猟して集めたデータを総合すると、ストゥーパと車輪との不可分一体の関係性が更に浮かび上がってくるのだ。

ナガルジュナ・コンダのストゥーパでは、その内部基礎プランにチャクラ・デザインを見ることができた。その中心にある円形や四角の車軸は、ストゥーパが立体的に立ち上がりドームとなった時、同時に立ち上がって直立した支柱になり、チャトラの柄となる。そしてこのストゥーパの中心にある軸構造を、チベット仏教に伝わったストゥーパ(チョルテン)の中に、よりはっきりとした形で確認する事ができるのだ。そして車軸やチャトラの柄がダンダでありブッダそのものであったという私の仮説が正しければ、その軸構造はブッダそのもののメタファーであった可能性が高い。

チョルテンの内部構造。中心に軸柱が見える

この様な中心軸は、実は日本の法隆寺五重塔にも存在する。心柱と呼ばれる長大な柱が塔の中心を貫くように屹立しているのだ。それは建物の支持構造とは直接の関わりをもたず、頂上の九輪を支えるだけであり、その存在理由についてはこれまでも様々な事が言われてきた。法隆寺が創建以来千数百年の間一度も地震などで倒れていない理由として、この心柱が持つ緩衝作用によるというのもひとつの仮説だ。

だが、インドのストゥーパ文化が長い旅路の末に極東アジアの果てにある日本にたどり着いた、それこそがこの五重塔であり、五重塔は本来的にはストゥーパであった。ならばこの心柱もまたブッダそのものを象徴していた可能性が十分に考えられる。ストゥーパと車輪との重なりを前提にすれば、心柱は法の車輪の中心にある車軸としての『御仏』として設置された可能性が高い。それが‘思いもかけず’五重塔を地震などの災害から守ったとしたら、これこそ正に仏の加護と言わなければならないだろう。

法隆寺五重塔とその心柱

そして更に、車輪と車軸の構造を内包するストーパ自体が巨視的に見れば車軸となるという、ロシアのマトリョーシカ人形の様な『入れ子構造』が明らかとなる。成道の地ブッダガヤで訪ねたチベット寺院で、私は実に印象的な仏塔を発見した。中心にあるスリムなチョルテンを車軸に、巨大化した欄楯を外輪に見立てれば、それは車輪システムそのものの姿をしていたのだ。


車軸としてのチョルテン、ブッダガヤ

この車軸としてのストゥーパはネパールのカトマンドゥにあるボダナート・ストゥーパを見るとよりリアルに実感できる。ネットで得たおそらくは航空写真と思われるその構図は、正にチャクラ・デザインの核心にある車軸としてのストゥーパの存在を鮮明に描き出し、同時にその全体像はシヴァ・リンガムとも見事に重なり合う。この様な構図は、インドネシアのボロブドール仏教遺跡などでも普遍的に確認する事が出来る。そして思い出して欲しい、ストゥーパとは本来その中心に仏舎利、すなわちブッダそのものを収めた容器だったという事実を。私の中で、いまやストゥーパと車輪(輪軸)との関係性は、確信に近いものに変わっていた。


軸としてのストゥーパ、ボダナート

余談になるが、現在全インド教に共有される『右繞(うにょう)』という礼拝作法がある。これは寺院の本殿やご本尊を拝する時に、人間の体の聖なる右側を中心に向けて歩いて回る儀礼で、その起源は古代仏教のストゥーパ文化にまで遡ると言われている。ストゥーパを車軸に見立て欄楯を車輪(リムあるいはタイヤ)と見立てた時、その間を回る信者の動きはスポークに相当する。信者自らが法の車輪のスポークとなってそれを支え回す姿は、在家主体の大乗仏教思想を象徴しないだろうか。これはそれを回す事によって功徳を得るというチベット仏教のマニ車とも関連して、とても興味深い研究テーマだと思う。

以上見てきたように、初期仏教においてブッダそのものを表していたほとんどすべてのシンボルが、車輪と車軸のイデアによって文字通り貫徹されていた事が分かった。この事実は次節において更なる展開をもたらす事になる。