2011年8月25日木曜日

土壇場の暗転


 2008年3月末、私はチベット亡命政府が拠点を置く北インドのダラムシャラーを訪ねた。この町はダライラマが住まうチベット仏教の聖地であり、インドのタントラ仏教が現代にまで生き生きと伝えられている。そこで私は、タンカと呼ばれる仏画の中に、溢れんばかりのチャクラのイメージを発見して驚く事になった。

時の車輪を意味するカーラ・チャクラ。六道輪廻を表す生命の車輪。そこに描かれた曼荼羅のほとんどが、チャクラのデザインをベースにしていたのだ。それは曼荼羅にとどまらない。明らかに車輪を連想させる姿をした無限の慈悲を表す千手観音のモチーフや、男性原理と女性原理が融合する六芒星のチャクラまでそこには存在した。それはタントラ思想を表わす優れた瞑想オブジェクトとして、千年の時を超えて継承されてきたのだ。

カーラ・チャクラ

生命の車輪(六道輪廻図)

千手観音

六芒星の曼荼羅

 そして、チベット仏教に特有な男女交合の歓喜仏を見たとき、私は軽い衝撃を覚えた。この本来の仏教では有り得ない造形は、男女の菩薩が蓮華坐を組んだ状態で性交する姿を表し、陰陽の原理が対立しつつ融合するタントラ思想を具象化している。それを見た瞬間、私の中でひとつのイメージがスパークしたのだ。

 両足を深く重ねた蓮華坐の坐相は、両膝を底辺として尾てい骨を頂点とする三角形を形作って安定している。これが最も完成された坐法と言われる理由なのだが、男女の菩薩が蓮華坐を組んで向き合って交合する姿を真上から見れば、下半身によって作られた二つの三角形が互い違いに重なり合って、それは見事に六芒星の形を現している事に気付く。それは肉体によって立体的に描かれたヤントラ(曼荼羅)だったのだ。

チベット・タンカの世界。それはインド世界のチャクラ意識とデヴィ・シャクティが、ヒマラヤの高峰を越えて遥かチベット高原にまで伝わった、生き証人だと言えるだろう。

男女交合の歓喜仏

 ダラムシャラーでの予想以上の成果に満足しつつ、私は首都デリーへと移動した。ほとんど全ての取材を終え、後は寝台エクスプレスに乗ってカルカッタへ向かい、一路日本へと帰るだけとなっていた。

 私の頭の中ではすでにここまでの原稿が細部に至るまでイメージされていた。その為のデータとして今回撮影した写真は、一万枚を超えるファイルとしてハード・ディスクに保存されている。後は日本に帰って一気に原稿を書き上げるだけだった。


 足かけ三年にわたる取材。そこで出会った様々な武術とそれを担う人々。さらに棒術の回転技をきっかけに『発見』したインドのチャクラ意識。その探求へとのめりこんでいった鮮烈なプロセス。長い長い探求と放浪の日々、その全てが深い感慨と共に思い出されるのだった。

ある種の達成感と虚脱感が交錯する中、恐らくは私の心は平常心を失っていたのかもしれない。2008年4月4日、ニュー・デリー駅でカルカッタへと向かう列車に乗った私は、そこでパスポートや現金、カメラやPCなどの貴重品と共に、全ての写真データを盗まれてしまったのだ。

その手口は旅なれた私にとっては極めて初歩的かつ単純なトリックだった。

インドの二等寝台車は三段になっている。下段の寝台は昼間は三人分の座席となり、上段の寝台は荷物置き場となっている。そして昼間は下段の背もたれになっている中段を、夜になると寝台として起こして固定し、三段寝台が完成する。

乗車した私は上段の自分の寝台を確認し、全ての貴重品が入ったショルダーバックを下段に置き、バックパックを上段に上げた。そしてショルダーを取ろうとその位置を確認した瞬間に、一人の子供が上段の荷物を指差しながら何か話しかけてきたのだ。

なまじヒンディ語が片言ながら理解できる私は、思わずその指先を見て、彼の言わんとしていることを理解しようとしてしまった。ほんの一瞬後、恐らく1秒はたっていないだろう、本能的にヤバイ!と察知してパッと下段のショルダーを振り返った。しかしそれはもう、すでに跡形もなく消えてなくなっていたのだった。

それは、この旅を三年間の総決算として全精力を注いできた私にとって、あまりにも過酷な試練となった。



2011年8月24日水曜日

シヴァ・ナタラージャの秘密


 タミルナードゥ州の東海岸、チェンナイとマドゥライのちょうど中間に位置するチダムバラムは、ナタラージャ寺院の周囲に発達した典型的な門前町だった。別名コスミック・ダンサーとも呼ばれる本尊のナタラージャ神像は、瞑想的な舞踏の極みに大宇宙のリズムと一体化するシヴァ神の姿を表すという。

踊るシヴァ神は全インドに普遍的に見られるのだが、タミルで創造された炎のリングに囲まれて踊るナタラージャ神の造形は、ヒンドゥの思想を高度に体現する完成されたバランスと美しさを持ったブロンズ彫刻の傑作として、インド美術の画期となった。

ナタラージャ神は4本の腕を持ち、右上の手に持つ鼓は宇宙の創造を、左上の手のひらに乗る炎は世界の破壊を、体の右側でムドラをつくる左右の手は秩序の維持を、右足によって踏まれた小人は無知からの解放を、そしてその全てを取り囲む炎の円環は、創造と維持と破壊のサイクルが永遠に輪廻し続ける、大宇宙のダルマを表しているという。

コスミック・ダンサー、ナタラージャ

実はここにも、私は10年前に一度訪れている。その美しい神像には大いに魅了され、再会に向けた期待も大きかったのだが、今回訪れたのにはもうひとつ別の理由があった。私は、その円環のデザインがチャクラを表しているのではないかと考えていたのだ。

ヴィシュヌと並ぶ二大神格のひとつとして全インドで信仰されるシヴァ神。けれどそれまでの私の知識では、シヴァ神はチャクラのイデアとはほとんど関係がないように見えた。その中で唯一このナタラージャの造形だけが、その円環のデザインによってチャクラを連想させるものだったのだ。

私が今まで理解したところによれば、神聖チャクラはインドにおける絶対的な神威の象徴だった。ブッダもヴィシュヌも、影の最高神デヴィ・シャクティも、それぞれが神聖チャクラのイデアとデザインをしっかりと担っていた。シヴァが最高神のひとりとして崇められるのなら、同じようにチャクラの神威を背負っているはずだ。それが私の仮説だったのだ。

ナタラージャ寺院を訪ねた私は、偶然バラモン司祭のセンティル氏と知り合い、彼の案内でその内陣の奥深くまで入り込んでいった。そして、前回はまったく気付く事もなかった様々な事実を突きつけられることになった。

ティライ・スターラと呼ばれる本殿、ナタラージャ神が祀られる神室のチット・サバーのすぐ横に、なんとヴィシュヌ神が祀られた神室があったのだ。そしてそこには、ヴェンカテシュワラ寺院と同じように、スダルシャン・チャクラが大きく掲げられていた。

シヴァの牙城であるはずのこの寺の核心部分に、ヴィシュヌ神が並祀されていた!

それは私にとって大きな驚きだった。

センティル氏によると、この様にシヴァとヴィシュヌが同格の主神として隣り合わせで合祀されている寺院は、インドでもまれだと言う。ナタラージャ・シヴァとヴィシュヌの神室を分けるホールの壁には、シャンカラ・ナラヤナと呼ばれる半身ヴィシュヌ、半身シヴァの融合神像まで飾られていた。そして、同じ壁にはシヴァと伴侶のパールヴァティが半身ずつ融合したアルダナリシュワラという神像も飾られている。

シャンカラ・ナラヤナ

アルダナリシュワラ

このナタラージャ寺院は、ブラフマーとヴィシュヌとシヴァのトリムルティが神姫のデヴィ・シャクティと結合した、宇宙の至高神を祀る寺院だったのだ。センティル氏によれば、ナタラージャの右上の手に持たれた鼓はブラフマンの創造を、左上の手に持たれた炎はシヴァの破壊を、そして左右の手によって表されるムドラはヴィシュヌの維持を、それぞれ表し、統合された三神の働きが女神のシャクティによって展開する至高神を、踊るシヴァの姿として表していると言う。

ナタラージャ寺院は10世紀から12世紀にかけての後期チョーラ朝の時代に完成されている。そして、このチョーラの諸王はヴェンカテシュワラ神の熱烈な信奉者としても知られていた。ナタラージャ神は、同じ至高神をヴィシュヌとして祀るヴェンカテシュワラ寺院の、タミル世界におけるシヴァ派のカウンター・パートだったに違いない。

ならば、女神と男神の結合を象徴するモチーフもどこかにあるのではないか。そう考えた私の前に、センティル氏は一枚の写真を見せてくれた。それが、チャクラ・タルワールと呼ばれるヴィシュヌの神像だった。その姿は、ヴェンカテシュワラ寺院で見たような、神格化されたチャクラだった。巨大なスダルシャン・チャクラに内在する形で描かれたヴィシュヌ神は多くの腕を持ち、その背後には、男性神と女性神の結合を意味する六芒星がくっきりと刻まれていた。

チャクラ・タルワール

チャクラの中で六芒星を背負ったヴィシュヌ。この瞬間、私の脳裏で踊るナタラージャ神像とチャクラ・タルワールがシンクロして重なりあった!

手足を展開して踊るナタラージャの頭と両手両足、さらに左横に流れる帯の先端を結ぶと、そこには見事に六芒星が姿を現すのだ。それは同時に、インダスのチャクラ・ヴィジョンの内在でもあった。

六芒星を内在させたナタラージャ

内在するチャクラ・ヴィジョン

さらに、左右の手で表された世界の維持を象徴するムドラがある。掌を見せながら指先を上に向けている右手は男性原理を、甲を見せながら下を指し示している左手は女性原理を、それぞれ象徴しつつ一体化してムドラを形作っている。そして、その右方にはクンダリーニを象徴するコブラが、まるでムドラから飛び出るような形で描かれているではないか。それは、世界の維持がその運動が、女性原理と男性原理という陰陽の交わりの中で初めて可能になる事を、鮮やかに暗示していた。

大宇宙のリズミカルな運動を象徴するナタラージャの舞踏。それはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの男性三神を包含していただけでなく、その背後に不可欠の女性神、デヴィ・シャクティを暗号のように隠し持っていたのだ。デヴィ・シャクティと結合した時初めて、シヴァはコスミック・ダンサーとして踊りだし、大宇宙は回り始める。このような造形とその思想は、インダスの昔から連綿と女性神の信仰を継承してきたタミル人によって初めて可能となった、ドラヴィダ思想の真髄とも言えるだろう。

踊るシヴァ神ナタラージャは、輻輳するチャクラのイデアを、しっかりと担っていた。それは様々なイデアを一身に体現しつつ回転する、コスミック・チャクラだったのだ。

車輪や華輪、ヤントラや吉祥文様のモチーフは、宗教的なイデアを象徴すると同時に、瞑想オブジェクトあるいは観想の対象としても重要な役割を担ってきた。世俗的日常に拡散する人間の心が、神という中心に向かって、放射するデザインを逆にたどって収束し、集中していく。魂がその中心とひとつになった時、日常を超えた『何か』が成就されるのだ。

敬虔な信仰者がナタラージャ神殿の奥深くに参拝しコスミック・チャクラを一心に凝視する時、それは同時に深い瞑想ともなり、その魂を宇宙の根源へと導いたのだろう。


2011年8月23日火曜日

タントラの台頭と衰退する仏教


一方、ヒンドゥ教の勃興からシャクティとバクティが台頭する過程で、その攻勢に耐え切れなくなった仏教は密教へと変質を余儀なくされ、ついにブッダは本尊の地位を大日如来へと奪われてしまう。

大日如来、それは大宇宙そのものと一体と考えられる汎神論的な法身仏で、その光明であまねく照らす事から遍照ともいう。その名の通り太陽を神格化した如来であり、そのイデアは、太陽の光照作用に由来し世界のすべてに浸透するヴィシュヌ神と驚くほど似通っている。ひょっとすると大日如来の登場は、ヴィシュヌ・バクティ教に対する仏教的なカウンター・パートだったのかも知れない。それはインドにおける仏教が、滅亡に至る最終章へと踏み出した一歩だった。

実は、女性意識の台頭と仏教の衰退に関連した面白い事実がある。

西暦7世紀以降、インドでは多くのヒンドゥ寺院が様々な王朝によって建てられるのだが、その少なくない数が、王妃によって建てられているのだ。それらの寺院の装飾には胸もあらわな豊満な女性像が多く用いられ、ヴィシュヌやシヴァや神々は、常に伴侶である神姫と寄り添う形で描かれている。王達も半裸に近い王妃の腰や胸に腕を回した中睦まじい姿で神々に相伴し、仏教徒の感覚で言うと、とても寺院とは思えない世俗的なエロスの礼賛がそこには横溢している。

寄り添い愛撫し合う王と王妃

この時代、寺院建立にまつわる伝承の中に、王妃が夫(王)や兄弟を仏教やジャイナ教からヒンドゥ教に改宗させた話が、繰り返し出てくる。当時の女性の発言権が、決して小さくなかった証拠だろう。上流階級のある種リベラルな生活の中から、ウーマン・リヴのような機運も生まれていたに違いない。

中部デカンはマハラシュトラ州のエローラに、世界遺産の石窟寺院群がある。8世紀から10世紀にかけて栄えたラシュトラクータ朝によって造営されたもので、広大なデカンの岩山をそのまま掘りぬいて作られた驚異の建造物は見る人を圧倒せずにはいない。ここは同時に、インド全土でも珍しく、仏教とヒンドゥ教とジャイナ教の寺院群が、それぞれ平和的に共存していたと言う点でも宗教史上に残る遺跡となっている。

中でもシヴァを主神として祀るカイラーサ寺院は、横穴を掘り込んだ仏教窟院とは対照的に、岩山をそのまま彫刻して寺院建築を出現させると言う破天荒な壮挙によって有名だ。そこでも、シヴァはパールヴァティと、ヴィシュヌはラクシュミと常に寄り添い、寺院とは男性神と女性神が睦みあう愛の巣であるかに見える。それを象徴するかのように、御神体として神室に安置されるシヴァ・リンガ(男根)は常にヨーニ(女陰)と結合した姿で表わされ、その神室は象徴的にガルバ・グリハ、つまり『子宮』と呼ばれるのだ。

一方、仏教の寺院を見ると、開祖であり神格でもあるブッダは、常に暗い寺院の最奥部にひとり坐っている。そう、彼は常に孤独なのだ。それは伴侶と寄り添うシヴァやヴィシュヌ、最愛のシータを命がけで救い出すラーマ、そして牧女達と浮名を流し複数の愛妻と仲睦まじく暮らすクリシュナとは、対極的なイメージだった。

家を捨て妻を捨て性愛を捨てて、ひたすらに瞑想にふける彼の生き様は、どのようにしても女性原理と交わる事は決してないのだ。女性の胎から生まれながら、彼の人生は女性性を根底から否定し、拒絶していた。その果てにしか到達しえない境地というものが確かにある、それはそうなのかも知れない・・・

だが、この様な仏教のあり方に、社会的に目覚めた女性たちがNOを突きつけた。これが、仏教がインドから滅びたひとつの大きな原因ではなかったかと私は思う。それは同じような出家主義をとるジャイナ教の場合にも多かれ少なかれ当てはまるだろう。暗い洞窟の奥にひとりこもるブッダと、太陽の光を浴びたカイラサナータ寺院で神姫と睦みあうヒンドゥの神々。それは、女性の性力に基づいたタントラ・シャクティ教が、出家主義に挑戦するかのように台頭し、インド全土を席捲していった歴史を、見事に表わしていた。

そしてその極めつけは、10世紀から13世紀にかけて繁栄したチャンデーラ王朝によって、北インドのカジュラホーに建てられた寺院群だろう。そこではカーマ・スートラを思わせる男女の交合図(ミトゥナ像)が寺院の壁一面に彫りこまれ、あたかもハーレムが石化して固定されたような印象を受ける。ヒンドゥ教徒にとっての人生の目的は、ダルマ(カーストに基づいた宗教的義務の遂行)とアルタ(実業における利益の追求)とカーマ(性愛の堪能)だと言われるが、タントラ的なデヴィ・シャクティへの信仰が、その突出したカーマへの傾斜を生み出したのかも知れない。

カジュラホーのミトゥナ像

伝統的に、北インドに発祥する全ての宗教において、瞑想修行によって神の英知に到達できるのは男性だけだった。霊的に優れた男性だけが神を知り世界の真理を知る事が出来る、そんな男尊女卑が間違いなくそこにはあったのだ。それに対してインドの女性たちが果たした、痛烈な逆襲こそがタントラだった。

神ならぬ男は、神を外部に求めて額に皺を寄せて修行せざるを得ない。けれど、神そのものを内に秘めた女性は、神を外部に求めて修行などする必要はない!そして、神をシャクティとして内在させた女性と交わる事によって、そのシャクティと一体化する事によって、男たちはより速やかに神と一体化し、救済されるのだ。

それは出家主義を奉じる仏教にとって、文字通り致命的な一撃だった。追い詰められた仏教は、ついに禁断のタントラ思想を取り入れ、その一部は左道密教へと変質していく。密教化の過程でブッダを本尊の地位から追いやり、ここで実践上最も重要な『戒』さえも捨てた仏教は、もはや『ブッダの教え』としての体裁を完全に喪失したのだ。そしてヒンドゥ教との差異性を失くした仏教は、インドにおいて、その存在意義さえ見失っていく。

カジュラホーでタントラ思想が頂点を極めていた頃、仏教はすでに滅びの寸前にまで追いやられていたと言ってもいい。正にその時、ムスリムの侵略軍が北インドに押し寄せ、密教最後の砦であった東インドのヴィクラマシーラ僧院を徹底的に破壊し、仏教は事実上、インドの大地からは滅び去ったのだった。

考えてみれば、ヒンドゥ教徒にとっての人生の三目的やシャクティとバクティに基づいた神への信仰は、ブッダが否定し、苦悩の根源として厭離したものばかりだった。ヒンドゥの価値観とは、正に反仏教の流れそのものだったのだ。妖艶な美女の誘惑を退けて降魔成道し、神を否定し暗い洞窟の中ひとり無一物で座り続けるブッダの姿は、インド世界の中では、不可避的に滅びゆく運命にあったのかも知れない。

おそらくは棒術の回転技もまた、ここにおいてブッダの転法輪から完全に切り離され、ヒンドゥの様々なチャクラ意識を象徴する技として、人々の日常生活に溶け込んでいった。そしてブッダの転法輪の記憶は、人々の中から完全に失われてしまったのだった。

だが一方で、インドにおける仏教の衰退とその滅亡は、同時に海外における仏教興隆の種をまく事にもなった。あの達磨大師が中国に渡ったのも、迫り来るヒンドゥ化の大波を見てインドにおける仏教の未来を見切り、中国へと法灯をつなげる試みだった可能性が高い。同時期に同じタミルからはブッダゴーサという学僧がスリランカに渡り、ヴィシュディ・マッガ(清浄化の道)という教典を著わしている。

達磨の教えは日本を含めた東アジアの禅仏教の起源となり、ヴィシュディ・マッガは現在でもテーラワーダ仏教圏で出家修行の百科全書的聖典として広く読み継がれている。そしてヴィクラマシーラ僧院の法灯はチベット仏教へと受け継がれ、ダライ・ラマの教えとなって現代に花開いたのだ。

かつて日本で参禅し、タイやスリランカでテーラワーダ仏教について学んだ私にとって、それは決して他人事ではない生々しい歴史だった。インドのチャクラ意識を追い続ける内に、いつしか宗教とは何か、生きるとは何かと言った時空を超えた根源的な人間ドラマを、見せつけられている気がしていた。


2011年8月22日月曜日

吉祥文様と招来されるラクシュミ女神


ヴェンカテシュワラ寺院を訪ねた後、タミルナードゥ州に入った私は、まずは州都のチェンナイに宿をとって、州立博物館にアマラヴァティの展示を訪ねた。その、かつて巨大なストゥーパの周りを囲っていた欄楯の浮き彫りとブッダの法輪は、見るものを圧倒する存在感に溢れていた。

タミルに仏教が伝来した初期サンガム時代、それは正にアマラヴァティでチャクラ美術が花開いた時期と重なっている。時代は下って、チャクラを御神体と掲げるヴェンカテシュワラ寺院とタミルの諸王朝は密接な関係を保ち続けていた。チャクラ意識はタミル世界に大きな影響を与えたに違いなかった。

 タミルナードゥ州を訪れるのは、インド武術を始めて以降これで三回目になる。だが、前二回の訪問では武術取材に専念して、遺跡や寺院などはほとんど回れなかった。そして周囲を見る視点も以前とは全く異なっている。果たして、回転技のメッカであるタミル世界で、チャクラ意識はどのように展開しているのか。期待を胸に、私は寺院や遺跡をめぐり始めた。そして、目くるめくチャクラ・ワールドに遭遇する事となったのだ。

 デカン高原以南の南インドでは、伝統的に女性達によってランゴーリ(あるいはコーラム)という吉祥文様が描かれてきた。それは様々な色をつけた砂によって各家庭の玄関先の地面に描かれるのだが、それが典型的な美しいチャクラ・デザインだったのだ。

六芒星をベースにした玄関先のランゴーリ

 色鮮やかに展開するランゴーリの図形を玄関先に描くことによって、ラクシュミ女神がその家庭に招来されて、吉祥と富をもたらすのだと言う。そのデザインは、車輪と華輪とヤントラが融合した、正にチャクラ・デザインの精華とも言うべきものだった。

車輪をベースにしたランゴーリ

 ヴィシュヌ神の伴侶ラクシュミ女神は、左右には聖なる二頭の白象を侍らせ、美しいピンクの蓮華座に坐り、両手に蓮華をかざした姿で描かれ、殊のほか蓮華とかかわりの深い神格だった。ランゴーリやコーラムは、ラクシュミ女神のスピリットを呼び込むための結界として、彼女が坐る蓮華座として、そして彼女を喜ばす蓮の花束として、さらにヤントラとして、聖性の象徴である車輪として、その全ての複合である吉祥文様として、長い歴史の間に育まれたのだろう。

ラクシュミ女神

 ランゴーリの習慣は、代々一家の主婦によって担われてきたと言う。それは、ラクシュミ女神を初めとするデヴィ達と共に、インドのチャクラ文化の担い手が男性から女性へと移り代わって行った歴史を象徴していた。

そして、タミルの旅が進むに連れ、さらに新たな事実が明らかになる。結界としての華輪がランゴーリと結びついて、寺院の天井と床を埋め尽くす、華麗なる吉祥文様の万華鏡世界を展開していたのだ。

それは決して新しい発見などではないはずだった。10年前にも、そして前二回のインド武術探訪でも、私はタミルを訪れ、その事実を目にしていたはずなのだ。けれど人間の認識と言うものは不思議なもので、例え目にしていても意識の焦点がそこに会わなければ、それは決して認識のレベルにまで届かないのだ。そのめくるめく華輪ワールドに開眼した瞬間、タミルは全く異なった世界として私の前に姿を現したのだった。

マハーバリプラム、チダムバラム、クンバコナム、タンジャブールと南下し、パッラヴァ朝からチョーラ朝にかけての寺院建築の宝庫を巡った私は、そこで多くの吉祥文様のペインティングを再発見した。そしてシランバムのメッカ、マドゥライのミナークシ寺院も、気がつけばその天井は色鮮やかな吉祥文様で溢れていた。

パッラヴァ朝時代の天井華輪

中でも最も印象深かったのは、ラーメシュワラムのラーマナータスワミ寺院だった。その圧巻とも言える長大な回廊の天井は、ありとあらゆる吉祥文様のバリエーションによって埋め尽くされていたのだ。

ラーマナータスワミ寺院の回廊

この寺院は、北のバラナシ、南のラーメシュワラムとも称される様に、数あるヒンドゥ聖地の中でも最も重要なもののひとつだ。それはヴィシュヌのもうひとりの化身であり、ラーマヤーナの主人公として知られるラーマと深く関わっていた。

誘拐された愛妻シータを救うためにスリランカへ渡ったラーマは、そこで悪王ラーヴァナを殺しシータを取り戻す。海を渡って無事インドに凱旋した彼は、ここでラーヴァナ殺しの罪を清めるべくシヴァ(エシュワラ)を勧請し礼拝した。以来この地はラーマ・エシュワラと呼ばれるようになり、後に現在のような荘厳な寺院が、シヴァとラーマを共に祀るものとして建立された。このラーマの物語は国民的叙事詩としてインド全土に広まり、ラーメシュワラムは、全ヒンドゥ教徒が生涯に一度は巡礼すべき第一級の聖地となった。

実際にこの寺院が建てられたのは11世紀頃だと言われるが、それはちょうど南インドでバクティ信仰といわれる運動が盛んになり、インド全土に広まった時代と重なっていた。それまで民衆は、バラモンと言う仲介者によって初めて神々とつながる事が出来た。いわば、バラモンは神々を占有する独占プロバイダーだったのだ。けれども社会が安定し、民衆の意識が成熟してくると、そのようなバラモン独占から離れた、言葉の真の意味で民衆のための神々が求められるようになる。

その求めはタミルを中心とした南インドで、神との合一を目指すバクティ運動として結実した。それを担ったのは、身分や性別を問わず様々な階層から輩出した宗教詩人と呼ばれる人々だった。彼らはバラモンに独占されたサンスクリット語ではなく、民衆にも理解できる日常のタミル語を使って神々への信愛を歌い、寺院を巡って人々の宗教心を掻き立てていった。そこで必要とされるのは難しい哲学でもなく複雑な祭祀でもない。人々はただ一心に神を念じ、あたかも恋人が愛しい人を思うように神に心を寄り添わす事によって、魂の救済が得られると説かれた。

そしてこのバクティ運動は、デヴィ・シャクティの信仰と深く結びついたものだったのだ。女性が男性を深く愛し寄り添っていく心、それが開発因となって男性原理と女性原理が結びつき、世界が展開していく。同じように、ひたすらに神を思い神を愛する事によって、人のその思いが神を動かし、世界に安定と調和をもたらす。

このバクティとシャクティの機運は、実は紀元前からすでにインド思想界の地下水流として脈々と流れ続けていた。それはヴァガバット・ギータにおいてクリシュナが説いた神への信愛や、あるいはサンチーの門塔における豊満な女神ヤクシとしてすでに顕れている。けれどそれが二つながら結びついたこの時代になって初めて、飛躍的な発展を遂げる事ができたと言えるだろう。

初期仏教にしてもジャイナ教にしても、バラモン教、そして初期ヒンドゥ教にしても、宗教における主役は常に男性だった。出家修行して解脱できるのは男性だけであり、バラモンとして祭祀を行い、神とつながれるのもまた男性だけだった。

シャクティとバクティの運動は、宗教の世界で常に二等市民を強いられてきた女性達が、ついに決起した革命だったのかも知れない。それは同時に、女性がチャクラ意識の担い手として台頭する契機ともなった。その象徴こそが、女性によって描かれる吉祥文様ランゴーリやコーラムに他ならない。

バクティ運動はやがて熱烈な信愛に基づいた聖地巡礼の網の目をインド全土に確立していった。その聖地筆頭とも言えるラーマナータスワミ寺院が、そしてあまたのドラヴィダ寺院が、鮮やかな吉祥文様によって彩られているのは、決して偶然ではないのだ。


2011年8月21日日曜日

影の最高神、シュリ・チャクラ


ヨーガ・チャクラにおいて重要な意味を持つクンダリーニだが、これは女神達の生殖力、あるいは活動力をコスミック・エナジーとして神格化した、デヴィ(女神)・シャクティへの信仰と密接に結びついていた。そしてそれは、ヒンドゥ教の隠れ最高神とも言えるシュリ・チャクラの思想へとつながっていく。

 クンダリーニ・ヨーガはタントラ教典に由来している。それによれば、私たちは目に見える身体と重なる形で、微細身と呼ばれる目に見えない霊的身体を持っている。微細身の背骨にあたるスシュムナー管に沿ってイダーとピンガラという本のナディ(脈管)が通っていて、それら三本の脈管を結ぶように7つのチャクラが段階的に並んでいる。

 一番下のムーラダーラ・チャクラにはブラフマー神がリンガ(男根)の形で存在し、それを三回半巻く形で、クンダリーニと呼ばれる蛇の姿をしたドゥルガー女神が眠っている。このクンダリーニ・シャクティがヨーガの実習によって覚醒し、各段階のチャクラを開きつつナディを駆け上がり、頭頂部のサハスラーラ・チャクラに住まうシヴァ神と一体化した時、瞑想者の意識は神と融合し、モクシャ(解脱)を成就すると説明される。

 シヴァ神は全ての男性神を象徴し、クンダリーニ・シャクティは全ての女性神を象徴するとも言う。この男性原理と女性原理の結合によって初めて、この現象世界の全てが展開する。そこで主導的な役割を果たすのはコスミック・エナジーとしての女神であり、男性神はあくまで受身、世界の展開力である女神の働きかけがなければ、動く事さえできない。

 この様な女神の活動力に対する信仰は、遠くインダス文明に見出される地母神信仰に発すると言われ、父系社会のアーリア文化に対する、母系社会の先住民文化の復権とも位置付けられるだろう。

 それを具象化したものがシュリ・チャクラ・ヤントラと呼ばれる聖なる図形だ。ヤントラとは器具、あるいは道具を意味し、シュリ・チャクラ・ヤントラは大女神の神威よって人々の日常を守護するべく作られた守護符だった。

シュリ・チャクラ・ヤントラ

 その形は女性原理を象徴する下向きの5つの三角形と、男性原理を象徴する上向きの4つの三角形によって構成され、その周りを二重の華輪が取り巻いた美しいチャクラ・デザインを形作っていた。

 バラジーの思想的背景にもあったが、特に南インドにおいて、ブラフマーとヴィシュヌとシヴァの男性三神が融合したトリムルティと、それぞれの神姫であるサラスワティとラクシュミとパールヴァーティ(あるいはドゥルガー、カーリー)が融合したデヴィ・トリムルティが、男性原理と女性原理を象徴しつつ結合し大宇宙の至高神となる、コスミック・エナジー(シャクティ)の信仰が著しく発達していた。

 それを端的に象徴する基本図形が、六芒星だった。これは複雑に錯綜するシュリ・チャクラの形とその理念を、男女神を表す二つの相対する三角形によって抽出したものだが、逆に六芒星からシュリ・チャクラが派生したとも考えられる。

 それは下向きの三角形が天界から降る神の恩寵を表し、上向きの三角形が人間の神への希求を表し、その両者が二つながらひとつに融合し一体化した時、初めて大いなるサマーディ(三昧)が成就するという。ここにおいて、真実の神が、実は女性原理であることが見事に暗示されているのだった。

アンバージー・ヤントラ

この六芒星のデザインは様々な神々のヤントラとして、ヨーガ・チャクラのシンボルとして、さらには密教の曼荼羅として、その後大きく展開していく事になる。そして、この六芒星の三組の対角を線で結べば、それは見事にインダスの印章文字を表している事に気付くだろう。このデザインは最もシンプルかつ基本的な華輪として、現代にいたるまで脈々と受け継がれている。

インダスの紋章と重なり合う吉祥デザイン

男女交合と神人合一を象徴する六芒星のデザインと、それを内包したシュリ・チャクラの信仰は、その後北インドをも席捲し、男性原理が優先したアーリア・ヴェーダの世界を飲み込んでいった。現代インドで見られるヒンドゥ教は、ほとんどその全てがシャクティ信仰の洗礼を受けたものだと言っても言い過ぎではない。地母神信仰に発するデヴィ・シャクティによって神々が統一されシュリ・チャクラとして結晶化した時、それはドラヴィダ先住民の宗教思想が、ついにインド世界を統一した瞬間だったのだ。