2011年7月12日火曜日

ブッダとヴィシュヌ・クリシュナ、チャクラの争奪戦


ここまで見てきたように、アショカ王の紀元前3世紀から、シュンガ朝を経てサタヴァハナ朝によってサンチーやアマラヴァティに仏教美術が花開いた紀元2世紀にいたる期間は、仏教の黄金時代だった。ブッダの法輪はインド全土を席捲していたのだ。

だが仏教が繁栄する陰で、水面下では不思議な現象が起こっていた。歴代の王たちは仏教を奉じその寺院やストゥーパに莫大な喜捨をする一方、日常生活ではバラモンを敬い、その祭祀に従っていたのだ。

それは民衆の場合も変わらない。冠婚葬祭を始め暦の節々での様々な祭式儀礼は全てバラモンの守備範囲であり、たとえ仏教徒であってもそれは同じだった。ブッダが祭祀の無効性を断言した手前、仏教は日常的な習俗にはほとんどタッチできなかったからだ。見方によっては、この日常的な習俗儀礼は人々のアイデンティティのより所として、ブッダの教え以上の磁力を持っていたとも言えるだろう。

仏教やジャイナ教などの批判勢力と、それを奉ずるアショカ王などの支配者の登場によって、伝統的なバラモン教が存亡の危機を迎えた時、バラモン達はその生き残りを賭けて自ら変容して行った。彼らは仏教やジャイナ教から非暴力の思想を取り入れ、それまで締め出されていた先住民シュードラに対して門戸を開き、特権階級の宗教であったバラモン教を、民衆のためのヒンドゥ教へと徐々に、しかし着実にコンバートしていった。進む混血と文化の融合に伴い、多くの先住民がバラモンやクシャトリアに成り上がっていった事実も見逃せないだろう。そうして批判勢力が全盛の時代にも、彼らは雌伏しつつもしっかりと社会に根を張っていったのだ。

その過程で、非アーリア系の土着の神であるクリシュナがヴィシュヌとして、インダスの瞑想するパシュパティがルドラ・シヴァとして、さらに地母神たちが、その配偶神姫として取り込まれる事になった。ヴィシュヌやシヴァ、そして神姫に対する信仰は、すでにマウリア朝の時代に現れていた事が記録されている。当時の貨幣には、車輪のシンボルと共にヴィシュヌ(化身のひとつでクリシュナの兄のバララーマ)が描かれたものも存在する。だがそれは、ブッダの威光の影に隠れて、しばらくはマイナー落ちを強いられる事になった。それが黄金時代として花開いたのは、サタヴァハナ朝の滅亡後、北インドに勃興したグプタ朝においてだった。

だがそこに至る前に、忘れてはならない重要な出来事が起こっていた。仏像彫刻の誕生だ。それまで、伝統的な仏教ではブッダを表す造形として法輪をはじめストゥーパ、菩提樹などを用いていた事はすでに述べた。それによってインドのチャクラ意識は大きく普及発展していった。けれど、仏像の登場によって、ブッダの栄光はある意味、決定的なダメージを被る事になったのだ。

諸民族が興亡を繰り返した中央アジアに発祥するクシャーナ朝は、デカンの支配者サタヴァハナ朝と対抗する形で、東はガンジス河中流域のバラナシから西は現在のイラン領に至る広大な領土を統一した。その初期にはカニシュカ王の様に仏教を信奉する王が続いたが、二世紀の終わりごろ、ギリシャ文化の影響を受けて史上初めて仏像表現が生み出された。これが世界に名高いガンダーラ仏教美術だ。

そしてクシャーナ朝の副都であったマトゥラーで、ほぼ同時期に仏像製作が開始される。このマトゥラー、前に触れたようにクリシュナ神の誕生の地であるというのは、歴史の偶然だろうか。ひとたび人の形をしたブッダ像が生まれるや、それは瞬く間にインド全土に普及していった。それは同時に、ブッダの象徴としての、あるいはブッダそのものとしての車輪のイメージが、急速に衰退していく契機ともなった。

アーリア人のインド侵入以来、一貫して神聖性のシンボルであったチャクラを、仏教徒自らが放棄してしまったのだ。その反対に、それまでブッダの法輪に隠れて雌伏を余儀なくされていたクリシュナが、太陽神ヴィシュヌとタッグを組んで、スダルシャン・チャクラを掲げて台頭してくる。

ブッダとその転法輪イデアの誕生以降、ブッダ信奉者とクリシュナ信奉者の間で、そのチャクラの正当性を巡って長きに渡る抗争が続いていたのではないか、と私は考えている。初期においては、アショカ王の威光によってブッダは圧倒的な優位に立っていた。けれどアショカ王の死後数百年が経ちその威光が薄れる一方、ヒンドゥ意識の拡大と共にクリシュナが台頭し、ブッダの法輪を脅かし始めたのだろう。

危機感に襲われた仏教徒は、チャクラに替わる新たな力強いシンボルを求めていた。そのタイミングで、チャクラ意識を共有しないギリシャ系異民族の文化からガンダーラ仏像が生まれるや、マトゥラーの仏教徒達は、それに飛びついてしまったのだ。

その新たな宗教美術造形はとても繊細で美しく、たちまち一世を風靡していった。けれど、かつては天空に浮かぶ輪宝にも例えられたブッダの神聖な威光は、彼が普通の人の姿として地上に固定されるや、実は逆に、その神威を失ってしまったのだ。ここに痛烈な歴史の皮肉がある。美術としてはすこぶる美しい、けれど神格としては何かが足りない。それが当時のインド人の仏像に対する深層心理ではなかっただろうか。これ以降、仏教美術の発展とその信仰心の広がりとは、時が経つにつれて反比例の度を増して行く事になる。

一方、ブッダの失権と歩調を合わすようにして、クリシュナ・ヴィシュヌやシヴァ神、あまたの女神達が高らかに復権を果たす。その過程で、仏像に刺激されて様々な神の像が作られていった。それは仏教に代わってヒンドゥ教がインド世界の覇者となる幕開けだった。

基本的に袈裟以外まったく装飾を身にまとわない簡素な仏像に比べて、ヒンドゥ教の神々の像は王侯貴族の様に絢爛豪華な宝飾品によってその身を飾っている。それは過去の遺物においても、現代においても、一貫している特徴だった。おそらくインドの人々にとって、神とは第一に世俗の栄華を自ら体現する者であり、地上の王侯以上の栄華を自ら体現するからこそ、その力を世俗に及ぼし、人々に利益をもたらす事が出来ると考えられたのだろう。

華麗に荘厳された現代的なヴィシュヌ神のブロマイド

仏像が誕生し、その美が礼賛される一方で、ブッダは決してその身を飾る事がなかった。彼の教えは、その生き様は、正に王侯の栄華を捨てた厭離の中にあったからだ。神聖チャクラの威光を失い、簡素を極めたブッダの姿は、現世利益を第一に考え徹底した世俗主義に立つインド人の目には、徐々に、しかし確実に、色あせて見え始めたのではないだろうか。

グプタ時代マトゥラーの仏像

その代償のように、大乗化した仏教は菩薩や如来などの神的なブッダを大量生産していく事になった。それらはヒンドゥの神々に対抗するかの様に、その身を宝飾によって麗々しく飾り立て、夢のように美々しい姿をしていた。その姿は世界遺産・アジャンター遺跡の豪奢な菩薩像に典型的に表れている。しかしそれは本来のブッダの教えとはかけ離れたものであり、ブッダ自身の失権を、より加速する役割しか果たさなかったのだ。

アジャンターの蓮華手菩薩像

グプタ朝においても、依然として仏教は手厚く保護されてはいる。当時としては世界最大級の総合大学とも言えるナーランダ僧院もこの時代に拡充され、数世紀にわたる黄金時代を築いていた。西遊記で有名な三蔵法師玄奘も7世紀にこの寺院で学び、当時の様子を書き残している。けれど世間一般の日常からは乖離した僧侶達のためだけの難解な哲学に終始する仏教は、すでに民衆に対する求心力を失い、明らかな衰退の兆しを見せ始めていたのだった。

王たちもアショカ王の故事に習って、自らの栄光の証として仏教僧院に寄進はするが、その信仰は時と共に確実にブッダからは離れていった。

反対に、日常的な祭祀と結びつきながら台頭したヒンドゥの神々は、民衆から王侯にいたる全ての人々の心をがっちりとつかんでいった。社会の安定と成熟に伴ってその秩序の要としてバラモンを中心としたカーストのイデアが再構築され、人々はその中に秩序付けられていった。

世俗主義を謳歌する風潮の中で、ヒンドゥ教徒の人生の目的として、ダルマ(カーストに基づいた本務の遂行)とアルタ(実業における利益の追求)、そしてカーマ(結婚生活における性愛の堪能)という価値観が形成されていった。自由と平等を掲げ、世俗的欲望からの厭離を志向する仏教のイデアは、ヒンドゥ的な秩序と価値に真っ向から敵対するものとして、いわば寺院の中に隔離され、無力化されたのかも知れない。

ブッダからチャクラの威光を完全に取り戻したクリシュナは、カーストを基盤としたヒンドゥ・ダルマの守護者として、ヴェーダに由来するヴィシュヌの権威を背負った最高神の地位を、ここに確立した。

その過程で、様々なクリシュナ物語が創造された事も忘れてはならない。クリシュナは多くの牧女と遊ぶプレイボーイとして、またルクミニーやラーダといった複数の愛妻と睦まじく暮らす理想の男として描かれた。そのイメージは吟遊詩人の物語によって広められ、インド中の女性の心を虜にしていったのだ。そのキャラクターは、孤独な禁欲者ブッダの、正に対極に位置するものだったと言えるだろう。

サタヴァハナ朝のアンドラ帝国の南の果て、車輪と華輪の仏教文化が花開いたアマラヴァティから南へおよそ350km、山の上のティルマラにヴェンカテシュワラ寺院がある。有史以来最大最強とも言える、ヴィシュヌ信仰の総本山だ。

サンチーからアマラヴァティへと南下した私は、チェンナイに行く道すがらティルマラを訪ねた。ここはヴィシュヌ神がヴェンカテシュワラ神の名前で祀られる第一級の聖地であり、その影響力は南インドを中心に全土へ及んでいた。一説には一日に数万人の信者がコンスタントにお参りし、その規模はイスラムのメッカやローマのヴァチカンを軽く凌駕するとも言う。

この神は別名バラジーとも呼ばれ、実に多くの商店やレストランがこの神像をレジの背後などに飾っている。その人気の秘密は、バラジーがあらゆる罪を滅ぼすと同時に、無限の富をもたらすと信じられている点にあった。信者達は財物の獲得を神に願い、そのご利益の証言者は長い歴史を通じて枚挙にいとまがない。スダルシャン・チャクラとほら貝、そして棍棒を持つバラジーは、そのご利益の力を象徴するかのようにきらびやかな装飾品で全身を飾っている。そしてもちろん、アクセサリーの中心デザインは聖なる華輪だった。

バラジー・ベンカテシュワラ神像

バラジーの実態は、創造神ブラフマーとヴィシュヌとシヴァが三位一体(トリムルティ)となった宇宙の唯一至高神であり、さらにそれらの神姫をも内包し、その総体を代表してヴィシュヌの名前で表しているという。いわばヒンドゥ教の神々が全て集結した、最強神格なのだ。

私はここで、無料で配られる月刊誌の中に興味深い写真を発見した。

それは御神体としてのチャクラだった。

かつてはブッダの象徴としてインド全土に掲げられていた法輪が、至高にして最強の神を象徴するシンボルとして神格化されていたのだ。それはもはや、武器としてのスダルシャン・チャクラではなく、神そのものとしてのチャクラだった。例祭では、チャクラ像が御神体としてバラジー神像と共にパレードし、共に聖なる池で沐浴すると言う。

チャクラ・スナーナム

ヴェンカテシュワラ寺院の起源は紀元前にまで遡るというが、現在あるような形で歴史に登場するのは西暦800年以降の事だ。それはちょうど南インドで仏教が衰退滅亡し、変わってヒンドゥ教が支配的になった時期と一致していた。

サタヴァハナ朝によって南インドにもたらされたチャクラ信仰が、その後の仏教の衰退と共にヴィシュヌ教のスダルシャン・チャクラに引き継がれ、ヴェンカテシュワラ寺院において御神体として継承されたのだろうか。あるいは、仏教とヴィシュヌ教という文脈の異なるライバル同士が、共にチャクラを御神体として掲げ、長きに渡って張り合って来たのだろうか。そして、千年以上に渡るチャクラの争奪戦が決着した時、仏教は滅びたのだろうか。どちらにしても、ヴェンカテシュワラ寺院はヴィシュヌ教のメッカとして繁栄し、仏教に代わって御神体としてのチャクラを現代に至るまで継承したのだ。それは仏教徒である私にとって、衝撃的な事実だった。

チャクラを制するものはインドを制す

その後ヒンドゥの神々は、ブッダに代わるチャクラの神威の体現者として、インド世界を征服していくのだった。



2011年7月11日月曜日

聖別する結界としてのチャクラ・デザイン


車輪(チャクラ)と日輪(スリヤ・チャクラ)とこの蓮の華輪(ロータス・チャクラ)を称して、インド・チャクラ・デザインの三位一体と私は呼んでいるのだが、その名の通り、この三つが重なり合いつつ、その後のインド宗教美術界を統一していく事となった。

それは、ひとつには瞑想オブジェクトとしての機能を担っていたとも言う。元々中心から放射状に展開するデザインは、根源である神(原初には太陽)から世界のすべてが展開する摂理を表していた。それが瞑想時には放射状のデザインを逆にたどって、日常に拡散する人間の心を中心である神へと集中させていく。チャクラ・デザインは、中心から放射される神の恩寵と、神という中心を求めて集中する信仰者(瞑想者)の心を、二つながらに象徴する形でもあったのだ。

私達にも身近な仏像の光背を見てみよう。後光とも呼ばれるように中心から光りが放射しているデザインは、車輪と日輪が融合した典型的なモチーフと言える。10世紀前後のタミルのブロンズ神像では、光背は多くの場合完全な車輪の形をしている。日本では法隆寺の毘沙門天像なども車輪を背負っている。神仏は聖なる車輪の威光を文字通り背負っているのだ。また、グプタ朝以降のペインティングや石像の場合、光背にも花柄模様を配して、華輪のデザインが融合するケースが多く見られる。そして蓮華座と呼ばれる神仏が坐る台座。これは蓮華の華輪が写実的に立体化したと見て間違いないだろう。

インドでは、宗教宗派を問わず、寺院の天井に巨大な華輪のデザインが描かれることが多い。これは車輪と華輪が、高貴な人々や神仏の頭上に差し掛けるチャトラ(傘蓋)と重なり合ってできた聖なる印だと私は思う。よく見ればチャトラも同じように、中心から放射状に展開するチャクラ・デザインそのものに他ならない。

ガネーシャと天井の華輪

サンチーの第二ストゥーパを丸く囲った欄楯に見られるように、華輪のデザインには結界としての意味合いが強い。おそらく蓮華座の華輪とチャトラの華輪によって上下をはさむ事でその空間を聖別し、天界から神仏のスピリットを招来する意味合いがあったのだろう。

私はインド各地を旅し、多くの寺院を訪ね、この結界説を確認している。寺院の門扉の上がり框や梁の下面に、両サイドの柱に、そして神殿の床や天井に、列柱のいたるところに、さらに神室の前面に、入り口のフレームに、さらに鎮座する神像の頭上や足元に、およそ寺院内部で何か仕切りとなる場所には、必ずこの華輪(もしくは車輪)のデザインがほどこされていたのだ。ご本尊である神像さえも、華輪デザインのアクセサリーでこてこてに飾り立てられる事が多い。この様な華輪の結界は、ジャイナ教やシーク教など全てのインド教において共有されている事が分かっている。

ゴプラムの華輪

そしてこの華輪のデザインは、サタヴァハナ朝によってアンドラ・プラデシュ州のアマラヴァティのストゥーパにおいて更なる発展を遂げる。私はその遺物をアマラヴァティとチェンナイの州立博物館で見ることができた。そこでは巨大な蓮の華輪が至る所に彫り込まれ、車輪と共にブッダの聖性を印象深く演出していた。

アマラヴァティの華輪

当時、現在のマディア・プラデシュ州からマハラシュトラ州、アンドラ・プラデシュ州に至る広大な領域を支配していたサタヴァハナ朝は、アショカ王によって宣揚された仏教とチャクラ意識を、北インドから南インドへと手渡していく重要な働きをしたと言えるだろう。そして、この華輪を前面に押し出した三位一体のチャクラ意識は、のちに純粋なドラヴィダ世界のタミル地方において、絢爛たる吉祥文様として文字通り花開くことになる。

アショカのマウリア朝から中部デカンのサタヴァハナ朝を経てタミルナードゥへ。このチャクラ意識がたどったと同じルートを、三位一体のチャクラ意識と合い携えて、棒術の回転技も北から南へと伝播して行ったと私は考えている。時代的にも、タミル武術の揺籃であり、シランバムの起源ともなったサンガム時代とピッタリと重なりあっている。回転技がチャクラ意識を象徴する技であるならば、それはチャクラ意識の変遷に関わらず、常に影のように一心同体の文化装置として共に伝播していったと考えるのが自然だろう。

インドに発した華輪の文化は、遠く日本にまで伝わっている。日本の皇室の象徴である菊の御紋を思い出して見ると、見事に16枚花弁の華輪のデザインをしている事に気付くだろう。それは見方を変えれば16本スポークの車輪とも重なる。私はインドを隈なく旅する中で、この菊の御紋と酷似した華輪のデザインに何度も遭遇している。日本の皇室といえば、仏教が大陸から伝来して以来、一貫してその外護者としての中心的な役割を担ってきた。これは私の仮説なのだが、菊の御紋はブッダの法輪と聖なる華輪をベースにしている可能性が高い。

菊の御紋

アショカ王に関しては、阿育王の名前で漢訳の仏典にも多く取り上げられている。インド史上最も偉大な仏法王であるアショカの治績になぞらえて、瑞穂の国の転輪聖王たらんと発願した古代の天皇が、国土の繁栄を祈念し、菊の形に重ねてダルマ・チャクラを掲げて来たのではないだろうか。

法隆寺の五重塔(ストゥーパ)を建立し、冠位十二階や十七条憲法を制定した聖徳太子の業績などにも、自らをアショカ大王に見立てて理想の国造りを目指した強い自負心が、現れている気がしてならない。彼によって建立された大阪四天王寺は、病者のための施療院や施薬院と老人のための悲田院を備えており、その精神はアショカ王の福祉政策をほうふつとさせる。さらに極楽門と呼ばれる西大門には、回転する法輪が象徴的に設置されているのだ。



2011年7月10日日曜日

車輪と華輪と日輪と


マガダ国がナンダ朝からマウリア朝へと一気に膨張し、インド全体に覇権を確立した時代は、同時にインドが世界史へと華々しくデビューした時代でもあった。

当時、インダス川流域にはギリシャ系やペルシャ系の外来勢力が押し寄せ、インドの勢力と激しくぶつかっていた。しかし彼らはついにガンジス川流域には軍靴を進めることができなかった。それを食い止めたのが、マガダの歴代諸王国だったのだ。

 ギリシャのアレクサンダー大王が、当時ペルシャ勢力の支配下にあったガンダーラ地方を征服しガンジス川流域を目指したとき、これを阻んだのはマガダのナンダ朝であった。実際には両者が戦火を交える事はほとんどなかったようだが、その圧倒的な軍事的プレゼンスによってギリシャ人将兵の撤退を促したのは、紛れもなくナンダ朝の実力に他ならない。

そして、インダス川流域の支配を回復すべく、ギリシャのセレウコス・ニカトールの軍勢が攻め込んだ時、これを撃退したのはマウリア朝の初代チャンドラ・グプタだった。彼はその後セレウコスと平和協定を結び、使節や贈り物を交換して地中海世界におけるインドの名声を大いに高めている。一説によれば、後のアショカ王はこの時受け入れたギリシャ人(あるいはペルシャ人)王妃の血を引いているとも言う。

 当時記述されたギリシャやペルシャの文献を見ると、インド軍の主力はすでにラタ戦車から騎兵隊や象部隊に移っていた事が分かる。ラタ戦車の軍事的重要度が低下するにしたがって、その車輪が持つ象徴としての意味合いも武から聖へとより宗教的な傾斜を強めたのかもしれない。

 そして、法輪を掲げてダルマの統治を象徴したアショカの石柱は、ペルシャやギリシャの影響を受けた当時最先端の彫刻造形美術を、インド全土に展示し普及する役目を果たしていった。

国章ライオン・ヘッド

 インド共和国の国章に採用されているアショカ石柱のライオン・ヘッドは、現在発掘地のサールナート博物館に展示されている。それを見た者は当時の高度な彫刻加工技術に驚きを隠せないだろう。鏡面仕上げと言っていいほどつややかに磨き上げられた柱をはじめ、毛筋までリアルに表現されたライオンのたてがみや生きいきとしたその表情、さらに美しく均整の取れた24本スポークの法輪、そしてライオン・ヘッドと柱の接合部に当たるペルシャ様式の優美な蓮弁装飾等々。そのどれをとっても、それ以前にはなかったインド造形美術の嚆矢であり、アショカ王はインド美術の父と言っても言い過ぎでない。

 この美的インパクトは、ブッダとアショカの栄光と共にインド全土を席捲し、その土地の人々を強烈にインスパイアしていった事だろう。その種は、やがて各地で百花繚乱の宗教建築美術を花開かせる事となる。今日見る事ができるその最初の大輪の花が、有名なサンチーのストゥーパだった。

 サンチーはマディア・プラデシュの州都、ボパールの北東46Kmに位置する。ここにアショカ王がストゥーパを建てたエピソードは、彼らしくない微笑ましいものだった。まだ若かりし頃、当時西インドの中心都市として栄えていたウジェインの太守に任命されたアショカ王子は、赴任の旅の途上、ヴィディシャで美しい商人の娘と出会い結婚する。敬虔な仏教徒だった彼女は、やがて故郷の近くサンチーの丘に仏教寺院を建設する。アショカはそんな王妃の心根を記念してこの地にストゥーパを建て、それはやがて地域の一大仏教センターへと時代を超えて成長していったのだ。

 比較的簡素だったアショカ・ストゥーパを土台に、欄楯とトラナに囲まれた美しい姿が完成するのは、後のシュンガ朝からサタヴァハナ朝にかけての数百年の間であった。特にサタヴァハナ朝の時代には世界遺産の決め手にもなったトラナと呼ばれる美しい門塔が完成し、ここに初期仏教美術が絢爛と花開く。それは同時に全てのインド宗教美術のルーツともなるものだった。

 第一ストゥーパの東西南北に建てられたトラナは、完成度といい規模といい保存状態といい、全てにおいて群を抜いていた。この時代、まだ仏像は出現していないが、その表面は精緻な彫刻でびっしりと埋め尽くされ、見るものを圧倒せずにはいない。

ブッダそのものを表す車輪、ストゥーパ、そして菩提樹。もともと貴人に差し掛けてその地位の高さを象徴したチャトラ(傘蓋)もまた、ブッダの臨在を象徴するデザインとして使われている。さらに世俗を超えた清浄性の象徴である蓮華、煩悩の埃を払うチャマル(払子)と呼ばれるハタキ、門衛のドワラパーラ、その他様々な神獣や小人、ヴィシュヌ神の神姫ラクシュミ女神の原型さえ見出せる。数え上げたらきりがないが、これらの多くが、その後全てのインド教に取り入れられ、現代に至るまで普遍的な宗教的モチーフとして生き続けるのだ。

サンチーのトラナ

中でもここで重要なのは、車輪と共に聖性を象徴する蓮の花だった。蓮は泥の中から出でて穢れなき純粋無垢の華を咲かせ、花びらや葉が泥水に触れてもそれをはじいて決して汚れに染まらない事から、古くからインドでは宗教的清浄性の象徴として特別な存在だった。それは同時に、水底の泥に埋まる根が世俗での生活を、濁った水中を上昇する茎が神を目指す精進を、水面を離れた空中で太陽を受けて花開く蓮華が解脱を表し、瞑想修行が完成されるプロセスをも象徴していると言う。

これも恐らく、乾燥した草原に発祥するアーリア人ではなく、モンスーンが卓越する地に生まれた先住民(それはインダス文明にまで遡れる)に由来する精神文化だったのだろう。サタヴァハナ朝の出自であるアンドラ族も、ヴェーダにおいてダスユと呼ばれたドラヴィダ系の先住民であった。

真上から見た蓮の華

仮に真円の幾何学文様として枚花弁の花柄を描いたとする。この花弁をスポークに見立てれば(あるいは花弁と花弁の間をスポークに見立てれば)、それは車輪のデザインとなる。騙し絵のようだが試してみて欲しい。ここに、聖なる車輪と聖なる蓮華が重なり合って、華輪、とでも言うべきデザインが形成されていった。

これに関しては、サタヴァハナ朝と同じころに成立したと言われる阿弥陀経の中に、面白い言葉がある。極楽の光景を描写するなかで、浄土を象徴する池には『大いなること車輪の如き蓮華』が咲いていると言うのだ。この表現は、実は法華経など他の多くの仏典にも共通してみられるもので、当時のインド人が蓮華と車輪を共に聖なるシンボルとして重ね合わせて見ていた事実をうかがい知ることができるだろう。

華輪と車輪のトリック

BC二世紀にシュンガ朝によって建てられた第二ストゥーパは、第一ストゥーパに比べ塔自体は小さく地味だった。けれどもその周りを囲む欄楯の一面にほどこされた彫刻を見たとき、私は目をみはった。そこには英語でメダリオンと呼ばれる円形の装飾デザインがずらりと並び、装飾のない塔と著しい対照を見せていたのだ。そして私は気付いた。メダリオンの中心モチーフは華輪であり、この欄楯が俗界と聖界を隔てる結界になっている事に。信者たちはこの聖別された結界の中を右繞し、日常の汚濁を離れて清浄なるブッダと出会っていたのだ。そして振り返って見れば第一ストゥーパのトラナの下面にも、結界としての華輪文様が美しく並んでいた。

第二ストゥーパの欄楯

6枚花弁の吉祥華輪

シュンガ朝が残した華輪デザインは、カルカッタのインド博物館に収められたバルフートの遺物にも見ることができる。シュンガ朝を創設したプシュヤミトラがマウリヤ朝の将軍だった事を考えると、すでにマウリヤ朝の時代以前から、華輪のデザインがブレイクしていた可能性が高いと言えるだろう。それはひょっとすると、インダス文明の昔にまで遡ることも可能かもしれない。というのも、インダスのチャクラ文字とほぼ同じデザインが、最もシンプルかつ基本的な吉祥華輪として現代に至るまでインド全土で使われている事実があるからだ。


2011年7月9日土曜日

アショカ大王と転輪聖王


それがブッダ以前か以後かは判然としない。けれど当時の北インドには、『転輪聖王』の思想があった。理想的な王が生まれると天空に輝ける黄金の輪宝が姿を現し、王がそれに従って進むとその進路に当たる諸王は戦わずして彼に服従し、世界はこの転輪聖王の輝ける輪宝のもと、武力ではなく法と徳の力によって治められ、統一されるという。

転輪聖王

アーリア人が侵入して以来、北インドでは戦争に次ぐ戦争によって民心が疲弊していたのかも知れない。ラタ戦車を駆って敵を征服する転輪武王が賞賛される一方で、その水面下では確実に、深い厭戦思想が広がっていたのだろう。そんな彼らが生み出したのが、この武力に依らずに世界を統べる理想の王、転輪聖王の姿だった。それは本来、現実にはあり得ない夢の様なユートピアだったのかも知れない。

だがカリンガ戦の惨禍を目の当たりにして深く悔い改めたアショカ王は、果敢にこのユートピアの建設を発願したのだ。彼は広大な帝国全土にダルマ・チャクラを掲げた石柱を立て、道路を整備し、産業を振興し、薬草を植え、全土に治療院を建て、無意味な殺生を禁止し、人間関係におけるモラル(ダルマ)の確立を促した。現代に伝わる彼の治績の数々は、ある意味現代社会が理想とする世界を、二千数百年も前に先取りしたものだったとも言えるかも知れない。

その根本にはブッダの教えがあった。アショカ王はバラモン教を含むすべての宗教を等しく保護しつつも、カースト差別や動物の供儀に対してはこれを完全に否定している。そして、何よりも銘記されるべきは、彼によって仏教がインドの地域宗教から世界宗教へと雄飛した事だろう。

彼は、帝国内部はもとよりスリランカや東南アジア、現在のアフガニスタンや遠くギリシャ世界に至るまで仏教使節団を送り、ブッダの教えを伝えている。事実、タイのナコーン・パトムと言う町の名はパーリ語で『最初の町』を意味し、アショカ王の使節によって東南アジアで最初の仏塔がここに建てられたと伝えられている。そこで発掘された石でできた古代の法輪は、彼の事績を記念するかのように、今もプラ・パトム・チェディ寺院の博物館にひっそりと展示されているのだ。

古代の法輪

思うにアショカ王は、自らを転輪聖王になぞらえていたのではないだろうか。武の王を極めた挙句にそれに絶望した彼は、ブッダの法輪を輪宝に見立てて、それを掲げる事によって、徳と法に基づいた理想の転輪聖王にならんと、発心したのではないだろうか。残念ながらその企ては彼の死によって潰えた。けれど彼が残した車輪の轍は、その理想は、時と場所を変えて脈々と受け継がれて行く事になった。

その後のインド諸王によって、アショカ王は理想の大王として憧憬され、アショカ大王になぞらえてブッダの法輪を掲げる事が、その王権の正当性と聖性と偉大性の証明とも考えられる様になっていった。それは云わば、アショカ・コンプレックスとでも言うべきものだったかも知れない。

ブッダや仏法が転じる法輪に例えられ、それがアショカ王によってブレイクしたどこかのタイミングで、回転技もまた、偉大なる武王を象徴する技からブッダの転法輪を象徴する技へと質的転換を遂げたと私は考えている。ここに至って、それは武力の象徴から離れて、純粋に宗教的な聖性を象徴する技として、全土に普及していった可能性が高い。

アショカ王の理想の帝国は極めて短命に終わったが、インド全土を一体化し様々な文化の共有を促したという点でも、大きな役割を果たしたと言えるだろう。その最も重要なもののひとつが、建築美術の分野だった。


2011年7月8日金曜日

神聖チャクラとしてのブッダの転法輪


話を紀元前500年前後、ブッダが生まれた頃に戻そう。

ガンジス川の上流域、現在のデリー周辺を拠点とし純粋なアーリアの血を誇ったバラモン達は、農村社会を基盤としたがんじがらめのカースト秩序を構築し、祭祀を独占する最上位の特権階級として人々の上に君臨していた。彼らは、ガンジスの中、下流域をヴェーダの及ばない世界の果てと呼び、そこに住む人々を混血族、あるいは蛮族と蔑んでいた。

 けれども、その時点ですでに経済力に関しては、その蛮族のほうがアーリア主導の社会を遥かに凌駕しつつあったのだ。基本的に商業を賤業として蔑んでいた保守的なバラモン文化に比べ、先住民文化が優越する中、下流域の人々はリベラルであり、アーリア人の優れた文化(特に戦車の製作法や冶金学、数学や豊かな言語概念)を咀嚼して以降は、むしろ先住民のほうが経済力や軍事力において台頭してくる。

 ブッダの時代、ガンジスの中、下流域にはいくつもの商業都市が繁栄していた。この地域には多くの新思想家が現われ、インド思想史上、百家争鳴とも呼べる黄金時代を築いた。六十二見とも呼ばれた多様な思想に共通するのが、ヴェーダの権威とバラモンの祭祀、中でも犠牲獣を捧げる供儀の有効性を否定した事だろう。そしてもうひとつ、バラモンを頂点としたヴァルナ(色)の身分差別も批判の的となった。混血が進んで人種差別の意識も低い都市に住む自由な経済人にとって、そのような保守的な因習はナンセンス以外の何物でもない。新しい思想は王侯から下層民に至る全ての人々に歓迎された。

 そのような社会を背景にして、ブッダは生まれたのだった。それは人々にとって、正に待望された救世主の登場となった。

 この頃、ガンジス川の中、下流域では16大国が栄えていた事はすでに述べた。その中でも、ブッダ、つまりシッダールタが生まれたシャカ族は、よりリベラルな共和制を敷いていた。私はこのシャカ族を、モンゴロイド系の先住民と考えている。

戦士階級クシャトリアの王子として生まれた彼は、上流階級の常として幼少時にはヴェーダを学ばされた。だが長じて人生の苦に目覚めると、ヴェーダやバラモン教が彼の苦悩を解決する力を全く持たない事に深く絶望していく。そしてついに29歳の時、妻子を捨てて王城を出奔し、魂の真実の救済を求めて修行者(沙門)の道を歩き始めたのだ。

 当初シッダールタは、仏典では六師外道と呼ばれる新思想家達のもとで瞑想修行に励んだ。短期間の内にそれぞれの最高レベルに到達してしまうが、それは彼の苦悩を解決するものではなかった。失望した彼は、当時主流だった断食や荒行などの苦行に飛び込んでいく。しかし6年が過ぎても、どのような成果をも得る事ができなかった。

断食行のために痩せさらばえた彼は、絶望を抱えた死の直前に山からさ迷い出て、偶然のように優しい村の娘スジャータと出会う。その身を案じて彼女が捧げたミルク粥を食べた彼は、翻然と苦行の無力を悟り、川で身を清めたのち、ひとり菩提樹の下で禅定に入った。それは、覚りを得ない限りは二度と立ち上がるまいと言う、大いなる決定心だったという。

ガンダーラ出土の苦行仏

一説には、彼は幼い日にナチュラル・ハイのようにして禅定に入った経験があり、その記憶をこの時蘇らせたのだとも言われる。他者から教えられた苦行によって痩せさらばえて死ぬよりも、自らの天性に還って死に至るまで禅定を極めることの中に、一筋の光明を見出していたのかも知れない。

 仏伝によれば、彼の禅定をマーラ(悪魔)の大軍が襲ったと言う。魔族たちは恐ろしい戦士の姿をとって彼の頭上に刀を振りかざし、あるいは狡猾な笑みを浮かべながら耳元で修行の中断をそそのかし、裸の美女は目の前で妖艶に腰を振って彼を誘惑した。これは恐らく、そのような悪魔が外からやって来たのではなく、彼の内面的な煩悩と葛藤の噴出だったのだろう。しかし彼は、それらに打ち勝って禅定を極めたのだ。

降魔成道

 そしてついにある『瞬間』が訪れ、忽然と彼は覚りを開く。その時、彼の頭上では明けの明星が涼やかに光り輝いていたという。

 その後、サールナートにおける最初の説法を皮切りに、ブッダの教えは燎原の炎のように北インドに広がっていった。神という曖昧な観念を離れ、徹底的に人生の苦とそこからの救済に焦点を合わせた彼の教えは、四諦八正道としてまとめられた。彼は平易に説いた。人間の運命を決めるのはカーストでもなく神頼みの祭祀でもない。どのような思いに基づいて、どのように行為するのか。それが人生を左右する最も重要な『縁起』なのだと。それはどこまでも理知的な人生の科学として、解き明かされたダルマ(法)として、当時の人々に革命的な意識の変革をもたらしていったのだ。

 やがて、その偉大な覚者としての歩みが回転する聖なる車輪に重ね合わされて、転法輪のイメージが確立していく。それは遠くインドラの時代に成立した武神チャクラと太陽神スリヤ・チャクラの思想が、瞑想する先住民のチャクラ・ヴィジョンと結びついた果てに生まれた、真の意味での神聖チャクラの誕生だった。

 ヴェーダの権威とバラモン祭祀の無効性を説き、カースト差別を完全に否定したブッダの教えは、リベラルな都市の住民達に歓呼をもって迎えられた。しかし、まさに仏教が持つそのリベラルな性格こそが、その後のインドにおける仏教衰退の原因となる事など、当時誰一人想像すら出来なかっただろう。

その後、紀元前3世紀にインド亜大陸を統一したアショカ王によってブッダの法輪が大々的にフィーチャーされ、インド全土でチャクラのシンボルはブレイクする。それまではアーリア人とその文化的影響下にあった周辺地域に限られていたチャクラ思想が、全インド世界の普遍的シンボルとしての地位を確立したのだ。

ちなみに、マウリア朝を生み出したマガダ国は、デリー周辺の純血を誇るバラモン達からは先住民シュードラの国として長く侮蔑されていた。それが今や誇り高きバラモン達をも飲み込んで、しかも本来アーリア人に由来する車輪を掲げてインド全体の覇者になったのだから、歴史とは皮肉なものだった。



2011年7月7日木曜日

インドラの失権とクリシュナの台頭


 紀元前1000年以降、アーリア人はガンジス川上流域、現在のデリー周辺に進出し、そこに定着した。彼らはヴェーダが優越するバラモン教を確立する一方、先住民の様々な文化要素を取り入れ、急速に土着化が進んでいった。それは、侵略の時代に一方的に制圧された先住民文化の復権であり、同時にインドラの失権の始まりでもあった。

 そして、紀元前800年頃、後に神格化されるクリシュナがマトゥラーの地に現れる。本来彼は牛飼いを生業とする先住民ヤーダヴァ族出身の宗教指導者だった。クリシュナとは肌の黒い者を意味する。そう彼は、かつてインドラの時代に徹底的に侮蔑の対象になったダスユの末裔なのだ。

ここに先住民の逆襲が始まる。クリシュナは『伝統的』なインドラへの信仰を否定し、人々に新しい自然神の信仰を説いた。言わば、侵略者によって押しつけられた権威に背く宗教改革者であったと言っていい。彼の教えは先住民を中心として多くの人々に受け入れられ、北インドに確固たる地盤を形成して行く。それは反インドラの運動であると同時に、破壊と侵略に根ざしたアーリア文化に対する、強烈なアンチテーゼともなった。

だがクリシュナは、インドラへの信仰は否定したがヴェーダやカーストの権威は否定しなかった。実在のクリシュナがどうだったかは分からない。けれど少なくとも聖典や物語に記述され現代へと伝わったクリシュナは、ヴェーダやカースト・システムのむしろ推進者として機能していったのだ。その点が後に、同じ宗教改革者であるブッダと大きく運命を分ける事になる。

 当初、圧倒的な戦力差によって一方的にアーリア人に蹂躙された先住民ではあったが、この頃になると積極的にアーリアの優れた物質文明を吸収し、アーリア部族に対抗できるような先住民部族が台頭してくる。恐らく、ヤーダヴァ族もそんな有力部族のひとつだったのだろう。それはカラード(有色人種)の国日本が明治維新によって西洋化を成し遂げ、やがて大国として欧米列強と伍して世界大戦に参戦するようになったプロセスと重なるかもしれない。

 神話によれば、クリシュナの反逆に激怒したインドラ神は大雨を降らしてヤーダヴァ族を滅ぼそうとした。それに対してクリシュナは、ゴーワルダン山を片手で持ち上げて傘とし、人々をその雨から守ったという。

 このクリシュナが、後にヴィシュヌの化身として取り入れられ、クリシュナ神となって神々のパンテオンの頂点を極める事になる。その過程で重要な役割を果たしたのが、国民的抒事詩マハバーラタだ。この物語はアーリアの有力部族バーラタ族の大戦争を縦軸に、様々な神話的なエピソードを横軸に展開していく。中でもクリシュナがらみで重要なのがバガヴァッド・ギータだ。

バガヴァッド・ギータ

 正に大戦争が勃発する寸前、ラタ戦車に乗って敵軍と対峙したパンダヴァ家の英雄アルジュナは、同族同士が殺しあう戦争に懐疑を抱き戦意を喪失してしまう。御者に扮したクリシュナはそれを見て彼を叱責し、激励し、奮い立たせる。その過程で、クリシュナは自らの神としての本質を表わし、アルジュナに対して世界の理法について解き明かすのだった。

アーリア系の有力部族バーラタの戦士であるアルジュナに対し、肌の黒い先住民であるクリシュナが御者と言う目下の立場をとりつつ、神としてアルジュナの上に立って教え諭すというこの構図は、当時のアーリア人と先住民の屈折した関係が反映されていて、非常に興味深い。(私はここで、現代の神話ハリウッド映画の『ラスト・サムライ』を思い出すのだが)

その場面で重要な役割を果たしたのが、ダルマという言葉だった。ダルマとは正義であり、法であり、そして人として果たさなければならない義務(本務)を意味する。私たち日本人がダルマと聞くと、まず達磨さんや仏法をイメージするが、インド語としての本来の意味は『支え、保持するもの』であり、そこから上記の様な世界の秩序を維持するために必要な様々な意味が派生したと言う。クリシュナはここにダルマの守護者としての役割を見事に演じていく。

興味深い事に、マハバーラタのあちこちに、クリシュナがスダルシャン・チャクラを投じて敵と戦うシーンが出てくる。走るための車輪がどうやって投擲武器に変わったのか、その過程はイマイチ分からないが、インドには昔からチャクラムというリング型の投擲武器が存在する。チャクラという言葉が車輪と同時に円盤をも意味する事から、両者の間で混同が起きたのかもしれない。

どちらにしても、このクリシュナとダルマ、そして投擲武器スダルシャン・チャクラとの結びつきがヴィシュヌのアヴァターラに取り込まれた時、破邪の究極兵器、世界を守護するスダルシャン・チャクラとして昇華されていったのだろう。

クリシュナとアルジュナがラタ戦車に乗る姿は彼らの代名詞となり、これがやがてインドラの時代の天空のチャリオットとも重なり合って、ジャガンナート寺院に代表されるラタ・ヤットラ祭へとつながっていく。反対に、かつてはラタ戦車を駆って戦場で華々しく戦ったインドラは、ラタの所有権を奪われいつの間にか象に乗る姿として描かれる様になる。

これは、チャクラ(あるいはラタ戦車)を神威の象徴とするインド世界におけるインドラの失権を、見事に表していた。その後のインド神話の中では、インドラは神の中の神と呼ばれながらも、実際にはシヴァやヴィシュヌを引き立てる道化回しの役を演じる様になっていくのだ。

象に乗るインドラ

 一方、ヴィシュヌ神のもうひとつの重要な化身にラーマがある。彼はマハバーラタと並び称される叙事詩、ラーマヤーナの主人公で、この物語はタイなどの東南アジアの文化にも大きな影響を与えているのだが、彼もまた、ブッダより少し前に実在した肌の黒い先住民の王子だと言われる。つまりヴィシュヌ神とは、タイトルだけはアーリア・ヴェーダの権威から引っ張ってきているが、その実質はほとんど先住民由来なのだ。

 同じ事は、もうひとりの最高神シヴァについても言える。インダス文明に瞑想するヨーギの肖像がある事はすでに触れた。ルドラ・シヴァは本来ヴェーダの神名なのだが、この聖獣に囲まれて瞑想する獣類の王パシュパティこそが、シヴァの実質的な起源だと言われている。そこではリグ・ヴェーダによって侮蔑の対象になった先住民の生殖器への信仰がリンガ(男根)として、地母神への信仰がパールヴァーティなど神姫の信仰として復活し、シヴァの腰には、インドラによって悪魔として殺戮された蛇が象徴的に巻かれる。それは同時にナーガ神として、あるいはヴィシュヌやブッダを守護する神的コブラ、アディシェシャとしても復活を果たすのだった。

 こうして見ると、シヴァもヴィシュヌもその他のイデアも、共にタイトルだけはアーリア・ヴェーダから借りてはいるが、その実質はほとんど先住民に由来する事が分かるだろう。

 一般にはアーリア・ヴェーダの文化こそがインドの宗教性の源のように言われているが、私は真っ向からそれに反論したい。インドの宗教性の根源になったのはむしろ征服された先住民の感性であり、思想であり、それがアーリア人という全く異質な侵略者と衝突し、徹底的に蹂躙され否定され屈辱にまみれた、その複雑深遠な化学反応の中からこそ、インドの深い宗教性が生まれたのだと。

 その証拠に、現在ヒンドゥ思想において重要視されている経典の全てが、アーリア人が先住民と融合する過程で先住民の文化的影響下に成立している。リグ・ヴェーダをはじめとした初期の純粋なアーリア・ヴェーダ文献は、現在では祭式における単なる呪文程度の役割しかなく、思想的にはほとんど重要ではない。精神文化を創るのは強者ではなく、敗者の魂からのインスパイアなのだ。それは現代社会においても明らかに見て取る事が出来るだろう。

唯一の超大国アメリカにどのようなオリジナルの精神文化があるだろうか。ひたすら先住民の社会を破壊し、侵略し、黒人を奴隷化し、他者から奪う事によって拡大を遂げたアメリカの文化に、人の心を打つような普遍的で高度な精神性が見出せるだろうか。

ロスに象徴される西海岸では、世界中の宗教思想をまるで展示場のように見ることができると言うが、禅、チベット仏教、ヴィパッサナ、ヨーガ、タイチーなど、その全ては非西欧世界に由来している。チベット仏教については、中国共産党の侵略によってインドに亡命したダライ・ラマに象徴される様に、正に敗者の境涯から出発し、今では世界中の良心を惹きつけている。

また、20世紀の偉大な実践的思想家を見れば、インド独立の父ガンディを始め南アフリカのネルソン・マンデラ、アメリカのキング牧師など、かつてカラードとして蔑まれた人々が筆頭に上がる。アメリカの徹底的な破壊を被ったヴェトナムからはティク・ナット・ハンという優れた仏教者が現れ、その思想が多くの欧米人を魅了している事も忘れてはならないだろう。また、かつて一方的に殺戮されたアメリカ先住民の思想は、地球環境問題の深刻化と共に、新たなる地球意識への指針として再評価されている。

現在の欧米を中心とした世界秩序の中で、人々の心を捉えている思想の多くが、かつて西欧によって発見され、一度は野蛮で劣った者として否定された人々の伝統から生まれている事実がある。

 同様に、純粋なアーリア思想として残されているリグ・ヴェーダの神への賛歌からは、非常に単細胞かつ能天気な、例えて言えばインディアンと戦い続けるアメリカのカウボーイの様な(正にブッシュその様な!)メンタリティしか見えてこない。この野蛮で単純な侵略者のメンタリティが、侵略されたドラヴィダ先住民の深遠な宗教性によって啓発され薫陶されていく過程こそが、インドラ教がバラモン教になり、やがてヒンドゥ教へと変質していく過程だったのだ。そしてそれは、バガヴァッド・ギータのクリシュナとアルジュナの姿に、見事に集約され、象徴されていると言えるだろう。

 こうして侵略の武神インドラは最高神の地位を完全に追われ、やがて単なる東方の守護神へと落ちぶれてしまう。東征の軍神として崇められた過去の栄光を懐かしむように、彼は今でもひとり、東の空を見つめ続けているのだ。

侵略する武神インドラを捨てたバラモン‐ヒンドゥ教は、仏教やジャイナ教の影響を受けながらアヒンサー(非暴力・不殺生)の思想を成熟させ、それは遥か後世にマハトマ・ガンディの対英独立運動として結実する。その系譜はマンデラ師やキング牧師へとつながっていき、欧米、もしくは白人キリスト教徒を中心とした世界秩序に対する、重要なアンチ・テーゼとして機能する事となった。

ひたすら侵略し破壊し略奪するしか能のない単細胞な思想や神は、秩序が確立し世界が成熟期に入れば無用の長物になるのが歴史の必然、普遍的なダルマ(法)なのかも知れなかった。