2011年5月27日金曜日

第二、第三のチャクラ


ある日、取材の合間に町を歩いていた私は、ふと見上げたジャガンナート寺院の尖塔に車輪のような装飾を発見して、何気なく地元の人に質問してみた。すると、彼はごく当たり前のように、

「あれはスダルシャン・チャクラだ」と答えたのだった。


スダルシャン・チャクラ! 初めて聞く単語に当惑した私は、咳き込むように、それは何だと訊ねた。すると彼は、そんな事も知らないのかと言いたげに、

「ヴィシュヌ神が悪魔を滅ぼすための武器さ」とさらりと言ってのけたのだ。

 それは別名『ニーラ・カーラ・チャクラ(青い時の車輪)』とも呼ばれるという。

実はジャガンナート寺院は、ナットドワラのシュリナート・ジー寺院と同じようにクリシュナ神を主神として祀っていた。それは同時にクリシュナをアヴァターラ(化身)とするヴィシュヌ神を祀っている事を意味する。

 聞けば、世界の維持を司るヴィシュヌ神は、この世が乱れ悪がはびこり正義が失われた時、アヴァターラの姿をとってこの世に光臨し、破邪の究極兵器スダルシャン・チャクラを投じて悪(アダルマ)を滅ぼし、正義(ダルマ)を回復するのだという。

ジャガンナート寺院の尖塔に掲げられた車輪は、その破邪の力を世界に放射し人の世をあらゆる災いから守護する、ヴィシュヌ神の象徴だったのだ。

 破邪の究極兵器スダルシャン・チャクラ! 

 その響きはとても新鮮なものだった。チャクラと言えばブッダのダルマ・チャクラしか念頭になかった私にとって、スダルシャン・チャクラの存在はある種晴天の霹靂だったのだ。

 そして、ブッダの転法輪以外に車輪のイデアが存在したという事実は、さらにもうひとつ、別の車輪がある事を私に思い出させた。それはプーリーの北、ベンガル湾の海岸に面した遺跡の村、コナーラクだった。ここにある世界遺産の太陽寺院は、その巨大な車輪の造形で有名だったのだ。私はその地をやはり10年前に訪れている。13世紀に建てられたこの巨大な石造寺院は、確か、太陽神スリヤが乗って天空を駆け巡る、神的チャリオット(古代戦車ラタ)に見立てた造形だった。そして、その巨大な車輪はスリヤ・チャクラと呼ばれていたはずだ。


 さらに古代戦車と言えば、ジャガンナート寺院の例祭ラタ・ヤットラは巨大な山車に御神体を乗せて町をパレードする事で有名だが、この山車がラタ戦車を模した物だった。この山車の巨大な車輪に轢かれて死ぬことによって全ての罪が清められ天国に生まれ変われるとして、かつては多くの熱烈な信者達がその下にわが身を投げ出したと言う。


 私の脳みそはイモずる式に記憶を紡ぎ出し、急速に回転し始めていた。
 
 そもそも何故、ブッダの布教の歩みが車輪の回転に例えられたのだろう。それは何故、『車輪』でなければならなかったのだろうか。

 ヴィシュヌ神が悪を滅ぼす究極兵器も、何故、同じように車輪でなければならないのか。
 そして太陽神スリヤは、何故ラタ戦車に乗って天空を翔け、巨大な車輪によってその神威が象徴されるのだろうか。

 そして何故、ジャガンナート神はラタ戦車に乗って行幸し、その車輪には魂を救済する力があるのか。

 インドの宗教思想の中で、車輪(チャクラ)あるいはラタ戦車というものが、何か重要な意味を持っているのは明らかだった。

 そう思ってプーリーを歩くと、驚いた事に町には車輪(チャクラ)のデザインが溢れていた。民家のベランダの手すり、ブロック塀のデザイン、寺院の壁に描かれたペインティングなど、無数の車輪がそこかしこにあしらわれている。

 宗教思想だけではなく、人々の日常意識の隅々にまでも、チャクラの形は浸透していた。ひょっとすると、この様なチャクラ意識とでも言うべき感性が、インドにおいて棒術の回転技を発達させた理由なのかも知れない。

 それにしても何故、他でもない車輪なのか。謎はその一点に収斂されていった。

 しかしこの新しい視点は、私の中でしばらく棚上げとなった。旅の途上では集中して資料を調べて研究する事も難しい。それに思想的な事よりも、今はもっともっと大事な仕事がある。私はオリッサから一路南下してタミルへと向かった。

これまでの見聞で、インド武術の優位性はそのエクササイズにこそあると見ていた私は、その象徴としてマラカンブを前面に押し出していく方針を固めていた。そのために、今回携えたビデオ・カメラが絶大な威力を発揮するだろう。華麗なシランバムの回転技や、カラリパヤットが醸し出す古式ゆかしい世界観を伝えるためにも、ビデオは欠かせない。それらの映像をウェブ上で紹介する事こそが、今回の使命だった。


 私はタミルからケララへと多くの道場を訪ね、歴史、思想を学び、ビデオを収録、収集した。合わせて回転技のバリエーションを増やすべく教えを請うた事は言うまでもない。道場だけではなく、いくつかの競技会に参加してトップレベルの選手たちの妙技をビデオに収める事もできた。普通の観光など全く出来ないような忙しい日々の中、多くのマスターたちが無償で協力してくれた事は、私を大いに励ましたのだった。

この南インドを巡る過程で、モチは餅屋と言うべきか、北インドにおける伝統武術の情報も次第に入ってきた。パキスタンと国境を接する北西部のパンジャブ州には、シーク教徒によって伝承されるガトカと呼ばれる武術が存在し、北東部のミャンマー国境に近いマニプル州には、タンタという武術がモンゴロイド系の人々によって伝承されているという。さらにヨーガの聖地としても知られるリシュケシュには、ヴャヤムという太極拳の様な武術的エクササイズが保存され、ヨーガやダヌル・ヴェーダとも深いかかわりを持っているらしい。ガトカとタンタにおいても棒術の回転技が実践されていると言い、回転技の分布が亜大陸全体に及ぶ事実が、ここに確認できたのだった。


明くる2007年春、私は帰国の途についた。実はインド滞在中の1月末、ある空手雑誌からインド武術に関する記事の執筆依頼が入っており、それが日本での最初の仕事となった。そのかたわら印度武術王国サイトに旅の成果を反映させる一方、当時注目され始めていたユーチューブにアカウントを開いて収集した動画をアップし、少しずつ相互リンクを完成させていった。

そうして当面の仕事に目途をつけた私は、旅の途上もずっと気がかりだったチャクラの謎に、改めて向き合う事となったのだ。

 秘められたチャクラ思想の背後に、回転技の真意が隠されているに違いない。アルバイトをしながらサイトを更新し、合わせて棒術の稽古を続けるという忙しい毎日を送りながら、私は同時に、チャクラ思想の歴史を知るべく様々な文献を渉猟し、ネットを漁って情報収集に努めた。

その結果、驚くべき事実が明らかになる。

 チャクラ思想の起源。それは少なく見積もっても紀元前2000年、つまり今から4000年もの昔に遡るものだったのだ。


2011年5月21日土曜日

アショカ大王とカリンガの戦士達


タミルでの取材を終えた私は一路帰国の途についた。そして旅行中に得た膨大な情報を整理し、ネット上に『サンガム印度武術研究所』名義で『印度武術王国』というホームページを開設し、全ての情報を公開した。

そしてアルバイトで資金を作ると、再びインドへと旅立ったのだ。今回は日本から樫の棒を携えての武術行脚だった。もちろん、念願のビデオ・カメラも忘れてはいない。最初の目的地はオリッサ州。そこはインドの仏教史とも深い因縁を持った、アショカ王のカリンガの戦いが行われた舞台だった。

話は紀元前6世紀に遡る。ブッダの時代、北インドのガンジス川中流域は16大国と呼ばれる国々によって割拠されていた。それらの国々は共和制をとる国と王制を取る国に大きく分けることが出来るが、やがて後者の中からマガダ国が台頭し、アジャータシャトル王の時代に周辺諸国を統一してガンジスの覇者となった。その後、内陸の不便なラージャグリハから水運に恵まれたパータリプトラに首都が移され、ここにその後のマガダ国繁栄の基礎が築かれた。

そしてブッダの死からおよそ150年、このマガダ国の辺境に兵を挙げたチャンドラグプタは、当時の支配者ナンダ朝をパータリプトラに破り、北インドを征服する。勢いに乗った彼は、怒涛の様に北西部ガンダーラのギリシャ人勢力を打ち破り、さらにデカン方面にも進軍してこれを平定し、亜大陸のほとんどを統一する。ここにインド史上初めての統一王朝、広大なマウリヤ帝国が誕生したのだ。

そして、紀元前268年、第三代として即位したアショカ王は、祖父チャンドラグプタ、父ビンドゥサーラの帝国建設の遺業を引き継ぎ、最後の抵抗勢力カリンガ国に侵攻する。戦いは凄惨なものとなった。その暴虐な性格によって自国民からさえも恐れられていたアショカ王の攻撃は苛烈を極め、一方、マウリア朝より遥かに長い歴史を持つ大国カリンガは、当時世界最強とも謳われたアショカ軍に対して、徹底抗戦で応じたからだ。目を覆うような殲滅戦の末、アショカ軍はついにカリンガを征服した。伝承によれば犠牲者は民間人を含めて数十万に達したという。

勝利に酔いしれるはずのアショカ王は、しかし死屍累々たる戦場に立って深く後悔し懺悔する事になる。それは余りにも無益な殺戮であり、大きな悲嘆であり、取り返しのつかない惨禍であった。やがて彼は、ひとりの僧侶との出会いによって、劇的に仏教徒へと改宗したのだった。

彼は国の政策を武力による覇権から法と徳による統治へと180度転換した。そして仏教に基づいたダルマ(法)の理念を普及するため、ブッダ所縁の地に仏舎利塔(ストゥーパ)を建立し、広大な帝国全土に詔勅を刻み、法の車輪をシンボライズした石柱(スタンバ)を建てていった。

アショカ石柱のライオン・ヘッド

残念ながらアショカ王の死後、帝国は急速に崩壊し、ダルマの政治もまた滅び去った。けれどもその理念は、2200年のちに見事に蘇る事となった。

20世紀初頭、イギリスの過酷な植民地支配に苦しむインドに、マハトマ・ガンディが現れる。彼は『サティヤ・グラハ(真理の把持)』の名のもと、インドの伝統的思想であるアヒンサー(非暴力)の理念を掲げてイギリスに対して不服従の戦いを挑み、長い苦闘の末、1947年ついに独立を勝ち取ったのだ。新生インド共和国の国章にはアショカ石柱から採られたライオン・ヘッドが選ばれ、国旗の中央にはダルマ・チャクラが高々と掲げられた。

インド国旗

インド語では否定詞のアを付けると反対語になり、ダルマの反対はアダルマで表される。法輪を掲げた新しい国旗。それは欧米列強のアダルマ(不正義、悪)による世界支配に対する、ダルマ(法と正義)の勝利を、高らかに宣言するものだったのだろう。

オリッサ州の州都ブバネシュワルの近郊ダウリの地に、アショカ碑文のひとつが今でも残っている。そして1972年、ここにアショカ王の事跡を記念して、日本山妙法寺によって平和祈念塔・シャンティ・ストゥーパが建立された。日本山妙法寺は藤井日達お上人によって創設された日蓮宗系の宗門で、団扇太鼓を叩きながら南無妙法蓮華経を唱えて、世界中で平和運動を展開している。その運動の中心になるのが、この平和祈念塔、シャンティ・ストゥーパの建立だった。

ストゥーパ、それは元々北インドのクシナガラで入滅したブッダを荼毘に付した、その遺灰を埋葬した土饅頭に起源を発し、やがてそれが礼拝の対象として荘厳され巨大化していったものだ。アショカ王以降急速にインド世界に普及し、ここダウリのものは古代の様式を忠実に再現したデザインで知られている。

アショカ碑文の上に彫られた象と遠景のシャンティ・ストゥーパ

10年前にダウリの地を訪ねて日本山に滞在し、10日間ほどお勤めを経験した事がある私は、その時に前述のアショカ王の事跡について学び、カリンガ国についても予備知識を持っていた。そして考えたのだ。圧倒的な戦力差を省みずに、殺されても殺されても、ひるまずに戦いを挑んで行ったカリンガの戦士達とは、さぞかし凄まじい侍スピリットの持ち主であったに違いない。ならば現代に至るまで、豊かな武術の伝統を残していても不思議はないと。

一方、目に見える造形としての法輪のデザインは、アショカ王の石柱によって始めてブレイクし、インド全土に普及していった事実がある。ならば、この二つが重なるオリッサの地には、棒術の回転技を転法輪の技として伝承する人々が、ひょっとしたら今でもいるかも知れない。私の読みは、正にこの一点にあった。そしてその狙いは、半ば的中する事となったのだ。

久しぶりに訪ねたダウリの日本山では、依田お上人が変わらぬ笑顔で迎えてくれた。ひと昔もの時が流れたにも関わらず彼は私の事をよく覚えていて、しばらくは懐旧談で盛り上がった。そして話の流れでインド武術を研究していると言うと、彼は一人の人物を紹介してくれたのだった。

ハリ・プラサードさん。糸東流空手の5段で、ブバネシュワルで空手道場を開いている。武術に関する造詣も深く人脈も広いので、何か情報があるかもしれないという。私は早速彼に会って、情報収集に努めた。

その結果、オリッサでは伝統武術が盛んに行われていること、プーリーにはロープを使った回転技があること、そして、村々に伝わる総合武術の中にも棒術の回転技があるらしい事がわかった。やはり回転技はオリッサに伝わっていたのだ。転法輪仮説に絡む証言を今度こそ得られるかも知れない。私は神の采配を祈りながら、ダウリを後にした。

プーリーはジャガンナート寺院の門前町として発達した巡礼地だ。ベンガル湾に広がる美しいビーチはリゾートとしても人気が高い。そこで私は、偶然もう一人の協力者と出会う事になった。今回日本から棒を持って旅をしていたのだが、プーリー駅ですれ違った際にその棒に目を留めて、彼のほうから話しかけてきたのがきっかけだった。

ロシアから来たカマルさん。ヒンドゥ教のアシュラム(修道場)でサニヤシン(修行者)として10年近く生活した後、現在はプーリーに家族と住んでサンスクリット語を学んでいるという。来歴を聞くと何やら仙人のようなキャラを思い浮かべるが、実は大の武術マニアで、身長185cm、体重は85kgにならんとする威丈夫。インド棒術も多少たしなみ、しかも大の日本びいきというおまけまでついていた。

私はその好意に甘えて彼の家に居候しながら、精力的に武術探訪を進めていった。彼の友人のアナンダさんから新しい回転技のバリエーションを教わったり、私が合気道の棒術を見せたりと、滞在はとても楽しいものとなった。取材の多くで彼らが通訳を務めてくれなければ、オリヤ語が話せない私は途方に暮れたに違いなかった。

カマルさん一家とアナンダさん

結論から言って、プーリーには3種類の伝統武術が存在していた。

ひとつはバナーティ。これは前述したとおりロープを使った回転技で、1.8mほどのロープの両端に1kgほどの重りをつけ、それに火をつけて回していく。アナンダさんの案内で取材したバナーティ協会のラマチャンドラ師によれば、古代カリンガ国の戦場では鎖を使った投擲武器としてこの技が活躍し、ダヌル・ヴェーダのスーチ・ヴューハ(針の陣形)では、炎の回転技が最前線で全軍を鼓舞する役目を果たしたのだと言う。

バナーティ

もうひとつはパイカ・アーカーラ。これはカマルさんの案内で見る事ができた。パイカとは本来志願兵を意味する言葉らしく、古代の王国において正規軍とは別に農民達によって武術が稽古され、いざ合戦となったら志願兵として戦場に馳せ参じたのがその起源らしい。一説によれば、オリッサにおいてイギリス植民地支配に最後の最後まで抵抗したのが、クルダー砦に立てこもったこのパイカの戦士達だったと言う。かつては勇猛で鳴らしたこのパイカの軍勢が、恐れを知らずにアショカ軍に徹底抗戦し、カリンガ戦の惨禍の一方の立役者となったのかも知れない。しかし、昔はカラリパヤットと同じような総合武術だったというパイカも時の流れと共に変質し、現在は村のマーシャル・ダンスといった趣になっていたのは残念だった。



パイカ・アーカーラ

パイカでも棒術の回転技は健在で、私を大いに勇気付けてくれたが、その後の取材で、オリッサでは特に武術として大上段に構えなくても、日常の生活文化、地域スポーツやレクレーションとして、棒術とその回転技が広く楽しまれている事実が判明した。これは一般にラティ・ケラと呼ばれるが、農村部ではほとんど村ごとに師範がいて棒術を教えているような状況で、タミル以上に棒術の里と言えるかも知れない。

けれど、どこで聞いても転法輪との関わりは証言が得られず、その点に関しては振り出しに戻った感があった。

そして最後の武術がクシュティだった。これもカマルさんからの情報提供でたどり着いたもので、道具立てはラジャスタンのものとほとんど変わらなかった。ただ、その起源については、12世紀前後から強まったムスリムの侵略からジャガンナート寺院を守るために、バラモン達によってクシュティが修行されてきたという。そう言えば、ナットドワラの御神体もムスリムの攻撃から疎開してきたと言うし、ラケッシュさんも職業は牛乳屋だがバラモン・カーストであった。

クシュティの稽古

その後の調べでは、ヴィシュヌ・パット寺院があるガヤー、ヴィシュワナート寺院があるバラナシ、クリシュナ寺院のあるマトゥラーなど北インドを代表するヒンドゥの聖地にもクシュティの道場が集まり、それらは全て、ムスリムの攻撃から寺院を守るために始まったという点で一致していた。

私はこれらすべてを写真とビデオに収め、武術取材に関してオリッサ訪問は予想以上の成果を挙げる事ができた。そして、回転技の転法輪仮説については、その後、思いもよらない急展開が待ち受けていたのだった。


2011年5月20日金曜日

柱上のヨーガ、驚異のマラカンブ


 エドワードの案内でやって来たヴィルプーラムは、外国人が訪れるような事はまずありえない、どこと言って特徴もない普通の地方都市だった。だが翌日の早朝、町の中心に位置する公園を訪ねた私は、ありえない光景に言葉を失う事となる。

 この道場のマスターはウラガ・ドゥライ師。もう60を越える年配だが、若い頃は選手として活躍し、地元のヴィルプーラムに落ち着いてからは仕事のかたわらボランティアでマラカンブを教え続けてきたと言う。早速見せてもらったその実技は、想像を超えた異次元ワールドだった。


 公園の広場に一本の木の柱が立っている。それはぐらつかない様に数十センチの深さに埋められ、高さは2m560cmはあるだろう。太さは根元で20㎝弱。上に向かって軽くテーパーがかかって、最上部はバットの握りの様にくびれがついている。一見、クシュティで使うムクダルを長大にして握りを上に立てた様な姿だった。

 その柱に向かって、トランクスだけをつけた裸の少年が、助走をつけてスライディング・キックの様に跳びかかった!少年は空中で身体をひねり、背中を上にして柱に対してカニバサミ状態で取り付いた。重力で大きく下に振れる上体を背筋でエビ反り、上体が地面につかないように支えながら、次の瞬間には身体をひねって手で上の柱をつかみ、蛇のように身をくねらせて登っていく。続けて体操の跳馬の開脚した振り子のような動きを垂直の柱上で行い、様々なテクニックを織り交ぜて目まぐるしく身体を動かしながら、少しずつ上へ登っていく。


 天辺にたどり着いた少年は、そこで片足を頭の後ろに回し、両手だけで身体を支え、反対の足を水平に伸ばしてポーズを決めた。そして驚くべき事に、その反対の足さえ頭の後ろに回し、再び両手だけで身体を浮かせた!これはヨーガの中でも最も難しい技のひとつで、平らな床の上でさえ実現するのは難しい。それをこの少年は、わずか直径10センチにも満たない柱の天辺で行っているのだ。しかも、ポーズからポーズへの移行も、全て垂直の柱の上や横で行い、一度も地面に下りることがない。


 足を解いて体勢を立て直した少年は、さらに奇想天外な動きにでた。柱の天辺を持って右手で支えながら、右足の甲をくびれにかけ、左足の裏で柱をつっぱってテンションをかけ、すっと手を離して、柱に対して足だけで横に立ったのだ。それは落ち着いて理屈で考えれば理解できるが、実際に目の前で見ると、日常的にはあり得ない光景だった。

 そして、あり得ない光景はさらに続いた。片手で天辺のくびれをつかみ片手で柱を押して、いま足でやった事を今度は手でやる形で、柱に対して垂直に、地面に対しては水平に逆立ちをしていく。

 もはや言葉もなく見つめる私の前で、少年はクルクルとその姿勢を変えて行き、最後に柱の天辺に立ち、バク宙で地面に降り立った。フィニッシュだ。少し照れながら右手を上げてポーズをとる表情が幼い。まだ十代の始めではないだろうか。そのあどけなさと技の凄さとのギャップに、私はあっけに取られて見つめるしか能がなかった。
 
 マラカンブが最初に歴史に現われるのは1135年に記された古文書で、そこではマナソラスの名前で武術の基礎エクササイズとして紹介されている。その後1800年代の半ばに、有名なクシュティ・レスラーのバランバッタダダ・デオダールによって装いを新たに紹介され、それが近代マラカンブの夜明けとなった。

初期にはレスリングの基礎トレーニングとして普及したが、やがてその素晴らしさが認められて純粋にいちスポーツ競技として確立。1958年にはデリーで開かれた全インド体操競技会にエントリーするなど躍進し、現在ではマハラシュトラ州を中心にインド全土で普及が進んでいるという。

私が見聞した範囲で解説すると、マラカンブ(通称マルカム)は大きく以下の4つに分けることができる。

1.地面に敷いたマットの上で、前回り、後ろ回りなど基本的な運動から始め、段階的に開脚やブリッジ、さらには両足首を頭の後ろに回した状態で両手を使って前転後転するなど、難易度の高い技へと進んでいく。その様子は、ヨーガ・アサナと床運動を足した様な印象を受けるが、これは男女共にマラカンブの基礎的な身体作り、準備運動として行われる。

 
 2.独特な形をしたマラカンブ柱を地面に立て、その上で様々なヨーガのポーズを中心にしたアクロバティックな体操を行う。前述の少年が演じたもので、単にマラカンブと言った場合はこれを指すが、他と区別するためにポール・マラカンブとも呼ばれる。これはトランクス一丁の裸でやる事から、男の子がその主役だ。

3.マラカンブよりやや短い柱を木の枝などからロープでぶら下げて、その揺れる柱の上で、ポール・マラカンブと同じエクササイズを行う。一般にはハンギング・マラカンブと呼ばれ、難易度は極めて高い。

4.地上10mほどの高さから太さ3cmほどの綿のロープをつるし、そのロープを手と足指の股で登るところから始まり、やがてはロープ上で様々な難しいポーズをとる段階までステップアップしていく。そのテクニックの多くはポールと重なるが、ロープさばきの巧みさを必要とするため、独自のテクニックも多い。これはロープ・マラカンブと呼ばれるが、本来はクシュティのトレーニングの一つであるラッサから進化したものだと私は考えている。一般に女の子が主役だ。


翌日のイベントでは、ロープ・マラカンブやハンギング・マラカンブも見る事ができたのだが、その妙技には舌を巻かざるを得なかった。固く安定した柱の上でさえ難しい技なのに、どちらも上からぶら下がった不安定な状態で常に揺れ動く中で、極めて高度なヨーガのポーズを連続的に作っていく。しかもそのスピードが半端ではない。

私も少しだけやらせてもらったのだが、ポールの場合は柱にセミのようにしがみつくだけで、何一つ出来なかった。ロープの場合も、柔らかいロープをまっすぐに登る事さえ容易ではなかった。

マラカンブは、本来戦士の身体作りのエクササイズとして発展した。それは、マラカンブという名前が、戦士(マラ)の柱(カンブ)を意味する事からも明らかだろう。いにしえの戦士達はこう考えていたという。

もし3m近い、大地に根を張った巨人を相手に互角に組み合い自由に身体を操れるなら、せいぜい2m以下の人間相手など造作もないだろうと。それは、揺ら揺らくねくねととらえ所のない巨人が相手の場合も同じだった。

彼らは、日本ならそれだけでびっくり人間ショーに出られるような高度なヨーガのポーズを、基礎的な準備運動として行う。そして安定した地面の上でその技が完璧に出来るようになると、それを、極めて不安定な柱やロープの上で、連続した素早い流れの中で行っていく。しかも柱やロープは地面に対して水平に置かれたものではなく、垂直に立っているのだ。その困難さは、想像を絶していると言っていいだろう。

その人間離れした動きはサルや蛇など野生動物の動きを彷彿とさせ、と同時にそれらを遥かに凌駕する技巧を見せていた。垂直に置かれたロープやポールに取り付くという性質により、全ての運動において自分自身の体重がウェートとして作用する点も見逃せない。そこにある思想は、体の柔軟性を前提に、どのような体勢でも自分の意図する通りに身体を操作し、イレギュラーな中でいかに自在に身体を動かすか、という事に尽きるだろう。

この点に、やはりアメリカ的なトレーニング・システムとの根本的な違いがある。彼らの思想はいわゆるユニバーサル・マシンに象徴されているが、それは人間の身体を機械とみなし、本来器械がやるべきような単純かつ機械的な運動を、器械に代わって人間がそれを行うというものだった。

確かにそれは、特定の筋肉群を太くするためには卓効を示した。だから、世界中にユニバーサル・マシンは普及していった。だが人間がある複雑な運動を行う時に、問題になるのは筋肉の太さだけだろうか? もうひとつ、最も重要な、運動センスというものが、忘れられてはいないだろうか。

そう、人間が運動するためには、運動センスと直結した『賢い』筋肉が必要なのだ。あらゆるイレギュラーを排除し、単純な機械でさえ簡単に出来るような上下動を人間が行う。そんなウエイト・トレーニングをいくらしても、賢い筋肉が身につくはずはない。

クシュティのラッサやムクダル、カラリのメイパヤット、棒術の回転技、そしてマラカンブ。そこに共通するのは、決して器械では代替出来ない高度に人間的な動きが、イレギュラーな状況の中、常に臨機応変に即応する形で行われる、という事だろう。

インドの身体文化といえば誰もがまず思い浮かべるヨーガ。元々ヨーガのポーズは、いにしえの聖仙(リシ)達が動物達の超人的な身体能力を身につけるべく、その動きを模倣して開発したという。その思想はカラリパヤットやマラカンブとも共通する。


北インドのクシュティ道場がヴャヤム・シャラーと呼ばれる事は前に書いた。『ヴャヤム』はあらゆる方向に曲げ伸ばす運動を、『シャラー』は館を意味する。わかりやすく言えばそれは『ストレッチの館』なのだ。そして、このストレッチという概念は、全てのインド身体文化、特に身体作りのエクササイズの中に、通奏低音として潜在している。

それが最も端的に表れているのが、マラカンブであり、メイパヤットであると言える。カラリの10年選手やマラカンブの達人を見ても、その体つきは一般人とほとんど変わらない。彼らはどんなに高度で高負荷な運動をこなしても、決してゴリ・マッチョにはならない。

そこで必要とされるのは野生動物のようにしなやかで柔軟な、臨機応変で汎応力の高い身体なのだ。その様な身体は、決して、ユニバーサル・マシンによって獲得する事は出来ない。そこでは逆に、センスのない愚鈍な筋肉が大量生産されるだけだろう。

私は、マラカンブと出会う事によって、ますますインド武術の素晴らしさ、その身体思想の深さを知った。それはアメリカ的なスポーツ科学では解決できない様々な問題や要求を満たすために、重要なオルタナティヴとなるに違いなかった。

現在インドのマラカンブ協会では、マラカンブがオリンピックの正式種目として認定されるべく、様々な努力を重ねていると言う。古代オリンピックの起源が戦士たちの平和的な技比べに発する事を考えれば、マラカンブほどオリンピックに相応しい競技はないだろう。そのユニークさといい完成度の高さといい、世界中の才能ある若者が挑戦する価値が、十二分にあると自信を持って言える。私は彼らの活動を前面的に支援する事を心に決めながら、ヴィルプーラムを後にしたのだった。

この時すでに、私はインド武術全体を日本や世界に紹介する仕事をライフワークにしたいと漠然と考え始めていた。最初はウェブ・サイトを中心に情報を提供し、いずれは自分でも教える様な形で。だがその為には絶対に欠かせないものがあった。今回は小型のデジカメしか持ってきておらず、何度悔しい思いをしたかわからない。マラカンブを筆頭にしたインド武術の驚くべき妙技、それは実際にその動きを見て初めて、その素晴らしさを実感する事ができる。静止した写真だけではそれが十分に伝わらないのだ。ウェブ・サイトを作るならば、その動きを、動きのままに記録し発信できるビデオはマスト・アイテムだった。

そして一方、私自身が何かひとつ、インド武術のエキスパートになって自らそれを演じ、日本で教える事を考えた時、それは棒術の回転技以外にあり得なかった。クシュティは西洋レスリングとほとんどかぶり、そのエクササイズ以外、日本に今さら移入する価値はなかった。カラリパヤットはケララの文化風土の中で、ひとつの完成されたシステム全体として実践されてこそ意味がある。それを丸ごと日本に輸入しても意味はないだろう。第一すべてを習得するのに10年かかるとあっては、私の年齢を考えるといささか無理がある。シランバムは、合気道や日本の棒術の伝統を知っている身としては、回転技以外優位性をあまり見出せなかった。そしてマラカンブに至っては、その難易度に始めから習得自体をあきらめざるを得なかった。

あの日、テレビで回転技を初めて見た時の直感に導かれたかの様に、私がその『ひとつ』として棒術の回転技を選ぶ事は、いわば必然だったのだ。


2011年5月19日木曜日

タミル棒術、シランバム


 マドゥライはミナークシ寺院を中心に発展した典型的なヒンドゥ教の門前町だ。州都のチェンナイ(マドラス)に次ぐ第二の人口を誇り、タミルナード州南部の中心都市として賑わっている。またこの町は、西暦紀元前後に花開いたサンガム文化の揺籃の地としても知られ、最も純粋なドラヴィダ文化が脈々と伝えられ息づいていた。

 明けて2006年の2月、私はマドゥライに到着した。ここは私にとって色々な意味で思い出深い土地だった。交通の要衝に位置し、ミナークシ寺院というハイライトを持ち、食事や宿にも恵まれている事から、以前の旅では何回も滞在している。だが当時は、ここが武術のメッカだなどとはまったく気がつかなかった。

ミナークシ寺院

 町に入った時点で持っていた情報は、マドゥライという地名とシランバム棒術という名前だけだった。何かしら取っ掛かりをつかまえるべく、とりあえず私は観光局を訪ねた。 私が、タミルの武術に興味がありシランバム棒術のマスターを探していると言うと、驚くべき事に、親切な係員が武術を特集した観光パンフレットを取り出すではないか。私もインドは長い付き合いだが、伝統武術だけを紹介するパンフレットを持つ町など聞いた事もない。係員はさらに、シランバムのマスターの名前と住所も、その行き方まで懇切丁寧に教えてくれた。聞けばマドゥライでは昔からシランバムが盛んで、現在でも郊外の村を中心に多くの道場が存在するが、町の中心にあって、しかも英語が通じるマスターなら、この人しかいないという。

 彼の名前はシャフール・ハミード。新市街の方でシマシャン武術研究所という名前で道場を開いているという。聞いた瞬間にムスリムだとわかって、私は少し意外な気がした。クシュティにしてもカラリパヤットにしてもヒンドゥ教と分かちがたく結びついている。何かインド武術=ヒンドゥ教という図式が、私の頭の中に出来てしまっていたのかも知れない。稽古は朝夕にやっているはずだと言う。とにかく観光局のお墨付きのマスターだ。私は早速その日の夕方、道場を訪ねる事にした。

 シマシャン武術研究所は、新市街のゴリパラヤム交差点から西に歩いて10分ほど、ミナークシ女子大の手前にあった。雑居ビルの1階に入居し、畳30畳ほどの広さに近代的なトレーニング機器が据えられている。名前に反してそれは一見、普通のパワー・ジムの様に見えた。最近のインドでは、ボリウッド映画のマッチョなヒーローの影響でボディ・ビルがブームになっている。各マシンには多くの若者が取り付いてトレーニングに余念がなかった。

初めて会ったシャフール師は30歳前後、筋肉質の青年だった。彼は10代の始めからシランバムを学び、現在はウエイト・トレーニングやヨーガと共にシランバムを教える総合フィットネス・クラブとしてここを運営しているという。若いが中々のやり手らしく、私が迎え入れられたオフィスにはシランバムを中心として沢山のトロフィーが並んでいた。

戦闘シランバムの演武をするシャフール師

そしてここで、私はもう一人予期しない人物と出会う事になった。エドワード・ポウ、アフリカ系のアメリカ人。ウィスコンシン大学でアフリカ言語学の博士号を取った文化人類学者で、ドラヴィダ人の伝統武術について研究するため、ここに来ているのだという。内心、面白い展開になったと思いつつ自己紹介し、しばらく四方山話に花を咲かせた。彼は黒人としてのアイデンティティを求めてアフリカの文化について学び、中でも武術に深い関心を持ち、若い頃には自らカポエイラの選手としてならしたと言う。もう60を越えた年配だが、確かにそのごつい身体にはある種の迫力があった。

私も一通りここに来た経緯や日本の武道について話をし、雑談も一段落したのを見計らって肝心のシランバム棒術について聞いてみた。すると、稽古はこのビルの屋上で行われるのだが、始まるまではまだ少し時間があると言う。そこでシランバムに関してざっとおさらいのレクチャーをしてもらうことにした。シャフール師によると、現在行われているシランバムは、以下の3つのカテゴリーに分ける事ができる。

ひとつは競技シランバム。これはスティック・フェンシングとも呼ばれ、二人の選手が丸いコートの中で棒を持って向き合い、スポーツちゃんばらの様にお互いに打ち合ってポイントを競うというもので、現在、主に学校教育や地域少年スポーツとして行われている。

次がショー・シランバム学校行事や地域のイベント、祭りなどで行われるデモンストレーションで、最近では新体操のリボンのような技も取り入れられ、華やかな装いを見せる。特に夜行われる一連のファイヤー・シランバムはほとんどサーカスのようなエンターテイメントで、民族太鼓のリズムに乗って繰り広げられる技の数々は、演技者と観客が一体となったトランスの世界にいざなってくれる。

三つ目が戦闘シランバム。これが本来の武術的な棒術で、ひとりで行う基本操作から始まって、二人で向き合う組棒の型から、棒を使った関節技、投げ技など、多様な広がりを見せる。そこでは刀や槍などカラリパヤットとも共通する武器技がかろうじて保存され、また徒手格闘の技と共にマルマンの知識も一部の老師によって継承されている。現代では棒術に特化してしまったシランバムも、かつてはカラリパヤットの様な総合武術だったのだろう。

回転技はこれら全てにおいて基礎的なトレーニングとして行われ、中でもショー・パフォーマンスの中では中心的な役割を担っていた。

時間を見計らって私達が屋上に上がると、すでに4,5人の生徒が集まって、てんでに棒を回していた。戦闘シランバム以外には女の子も多く参加すると聞いたが、その場でも2人の少女が一心に棒を回していた。

カラリでは固くした葦と言うか、しなりの強い竹と言うか、その中間と言うか、とにかく日本ではまず見かけない材質の棒だったが、シランバムでは籐家具の籐とそっくりな棒を使っている。英語でケーン、ヒンディ語ではヴェットゥと言うのだが、恐らく籐だろうと思う。普段組み上げられた家具としての籐しか見た事がないが、棒として持つとそれは非常に軽くフレキシブルで、しかも頑丈だという事がよくわかった。

私も合気道の棒術を見せたりして、はからずも日印武術交流が始まった。上級者が演じる回転技の速いこと。カラリのそれに比べ、2倍以上の速さに感じられた。さらにその多彩な技のバリエーション。今まで見た事もないようなトリッキーな動きに、私はたちまち魅了されてしまった。

だが、ケララで初歩を学んだとは言え、そのトリッキーでスピーディな技は、目で見ただけでその原理を理解できるほど甘いものでは無かった。できればここに一か月ほど滞在し、すべての技を完全に我が物としたい。だが今回、その時間はなかった。私はもどかしいような葛藤を抱えながら、回転する車輪の姿を見つめ続けた。

一通り見学も済んだ帰り際に、シャフール師が耳寄りな情報を教えてくれた。なんでも彼はシランバムを世界に紹介するために、現在DVDの製作を進めているらしい。そして2日後にもその撮影があり、シランバムの全てが見られるという。私は幸運をアレンジしてくれた神に感謝した。

当日、撮影は郊外のリゾート・ホテルの広い庭で行われた。そこでは試合やショー、そして武術的な組み棒の型に至るまで、文字通り全てを見る事ができた。試合形式や組棒の型などはとても興味深く観察したのだが、日本の合気道で非常に実践的な稽古をしていた私の目から見て、それらはいまいちの感を否めなかった。

そんな中私が注目したのは、ショー・パフォーマンスで行われたリングの回転技だった。六芒星の形や同心円状に溶接した金属製のリングに火をつけて回す、チャクラ・チュトゥルーという技。その名前は文字通り、『車輪の回転』を意味していた。

炎の回転技チャクラ・チュトゥルー

早速シャフール師に質問したのだが、わかるのは名前だけで、その起源や由来などは全く要領を得なかった。どうやら彼らにとって、このシランバムはあまりにも身近な生活文化でありすぎて、今更起源やら意味やらを突っ込んで考える事などない、と言うのが実情の様だった。

シランバムの歴史についても分からない事が多い。というか、インドの歴史自体が実はあまりよくわかっていない。こう言うと多くの方は不思議に思うかも知れないが、実はインド人には、あるいはインド世界には、伝統的に歴史を記述して年代記を作成したり、日常生活の民俗誌を記録するという習慣が欠如していた。それは16世紀、北インドにイスラムの侵略王朝であるムガル帝国が成立する前後まで、インド全土で普遍的に見られた傾向だった。

昔からインドでは、時間というものは過去から未来に向かって一方通行で流れるものではなく、それは常に円環をもって循環していると考えられてきた。繰り返し巡ってくる季節を判別するための暦は発達したのだが、彼らの関心はひとえに神の営為を探求する方面に傾き、繰り返される人間の営為についての記述は、ほとんどないがしろにされてしまって来た。

偉大なる神の領域である時間の中で、繰り返される人間の生活や歴史などは取るに足らない。そんなものを賢しらに記述したり論評したりするのはおこがましい、と言う考えもあった様だ。とにかく、史上有名な王朝や帝国にしても、王達の即位年や名前さえもはっきりしない事が少なくない。生活文化や風俗に関しても、仏典や外国人の旅行記を除けばほとんど残されていない。この点は、執念とも言える克明さで古代から史書を綴ってきた中国人とは、対照的な国民性だと言わなければならない。

まことに学者泣かせな話だが、シランバムの歴史についても一般には紀元前後のサンガム時代に発達したと言われているが、本当のところはよくわからない。ましてやシランバムの中の、いち回転技の起源など、誰一人わからないというのが実情だった。

タミルでは、ここ数百年のスパンで見ればシランバム棒術の発展にムスリムが大きく貢献していて、技術用語にもアラビア語系の言葉が多用されているという。一方、仏教の気配は残念ながら全く感じられない。過去においてはタミルやケララでも仏教が信仰された一時期があるのだが、ちょうど達磨が中国に渡ってから100年ほどで、そのほとんどが滅びてしまったのだ。そんな中、チャクラ・チュトゥルーの存在は明るい発見だったが、そこからは話が進んでいかない。

インドは釈尊が生まれ、悟りの後に布教し、原始仏教から大乗、そして密教に至る仏教文化が栄えた土地だった。だが実は、6世紀前後から仏教は急速に衰退し、13世紀に東インドのヴィクラマシーラ寺院がイスラム教徒によって破壊されたのを最後に、事実上インドの大地から仏教徒は消滅してしまうのだ。その後近代に至るまで、ブッダの法輪は遺跡の中に完全に埋もれてしまい、インド人の生活からはその記憶が完全に失われてしまっていた。

棒術の回転技が法輪を象徴するという私の仮説は、完全に壁にぶち当たっていた。それは単なる妄想に過ぎないのだろうか。私は途方に暮れざるを得なかった。

 しかしその点を除けば、マドゥライ滞在は私にとって十二分に有意義なものとなった。いくつかの道場を訪ね、多くの人々と友好を深め、わずかながら回転技のバリエーションを増やし、私のインド武術に対する思いは、更に深まったのだった。

達磨大師によって中国の嵩山少林寺にもたらされたドラヴィダ武術は、やがて中国武術の本流となって発達し、それが沖縄に渡って唐手になり、日本本土に渡って空手になった。少林寺の表芸である棍法、沖縄の村の棒術や古武術の棍には、その歴史の証人のように美しい回転技の片鱗が伝わっている。そしてドラヴィダ武術の流れは、達磨の時代を挟んだ千年の間、あまたの王朝によって東南アジアに輸出され、現地に大きな影響を残している。その、全アジア武術のルーツとも言える古式ドラヴィダ武術、その直系の継承者こそが、シランバムでありカラリパヤットなのだ。その長い歴史に思いを馳せた時、私は時空を超えた圧倒的なスケール感に戦慄を禁じえなかった。

 そしてもうひとつ、私はここでエドワードから重要な情報を得た。州都チェンナイの南、ヴィルプーラムという町に、マラカンブというとんでもない伝統武術があるのだと言う。実際に彼が撮った写真を見ると、それは驚愕のパフォーマンスだった。しかも2日後にイベントでデモが行われるらしい。私はシランバムに未練を残しつつ、彼と一緒にマドライに別れを告げたのだった。


2011年5月8日日曜日

世界最古の伝統武術、カラリパヤット 2


一般にすべての稽古は、東から西へと道場内を縦に長く使って移動しながら行われる。『ワダットゥ・ナーレ、イダットゥ・ナーレ』ヴァイターリと呼ばれるグルッカルの掛け声に合わせて、横一列に並んだ子供達が、右足、左足、と、一斉に前蹴り(ネール・カル)を始めた。最初は軽く身体を慣らし、段々と足の高さが上がっていき、ついには軸足から蹴り上げたつま先までが一直線に見えるほど、その蹴りはしなやかに伸びていく。基礎体錬メイターリの基本キックの始まりだ。

ネール・カル

前蹴りに続いて振り子蹴り(ティルチ・カル)、外回し蹴り(ヴィードゥ・カル)、内回し蹴り(アカム・カル)、斜め蹴り(コーン・カル)、そして蹴り座り(イリティ・カル)、蹴り座り反り回り(マラルナ・イリティ)、最後に猪のポーズを連続した流れとして行うニーキ・デルテが終わる頃には、子供達の肌には薄っすらと汗の玉が浮かび始める。

道場の床は前述したように掘り抜きの土の地面だ。しかも完全なまっ平ではなく、微妙なでこぼこや傾斜がある。この起伏が、特に振り子蹴りの時には大敵になる。これは前蹴りの蹴り足が自然に落ちてくる勢いを利用して180度ターンし、同じ足で再び前蹴りをするというもので、高度なバランスが要求され、わずか数ミリの段差にさえ、簡単に体勢を崩されてしまうのだ。

基本的に野外での白兵戦やゲリラ戦を想定したカラリの練兵では、自然環境ではイレギュラーこそレギュラーである、という明白な事実が大前提となり、イレギュラーの中でいかにレギュラーに身体を操作できるかが試されているのだろう。

意外と狭い道場内で、一度に稽古できる人数は限られている。およそ37人を単位とする一組が終わると、彼らは休みに入り、次の組が入れ替わりで同じエクササイズを始める。一通り基本キックが終わると、いよいよメイパヤットと呼ばれる、シリーズを構成する体錬の型の始まりだ。

『アマルナ!』

グルッカルの掛け声と共に、一列に並んだ子供達が一斉に手を振り上げ、そしてしゃがみこんだ。象のポーズだ。1拍おいて掛け声は畳み掛けるようにスピードを増していく。ライオンのポーズから飛び上がって着地し低い馬のポーズへ。立ち上がって左右の前蹴り。そして蹴りからふわっと浮き上がるようなジャンピング・ターン。子供達の全身は、あたかも譜面上の音符の様にグルッカルの指揮に合わせて軽やかにリズミカルに、波打っていく。それは滞る事を知らないエナジー・フローの波だった。東から西へと進む波は、壁に当たってジャンピング・ターンによって東へと向きを変え、入り口の扉に向かって再び波打っていく。

象のポーズ

実際の稽古を見ると、子供達はほとんど肩を接する近さで並んでメイパヤットを行っている事が多い。グルッカルによれば、あえて不自由な環境で激しく動く事によって、隣とぶつからない為の間合い感覚や協調性を養うのだと言う。

少しずつポーズの種類を変えながら、この往復の波が数回繰り返され、最後に蛇のポーズからダイナミックな体の変換をすると、子供達は一斉にプータラに向かって縦開脚を決めた。スージ・ギルテ、針のポーズだ。一瞬の残心の後、子供達は立ち上がり、プータラに礼拝した。道場内で行われる稽古のすべてが、神々と対峙する瞑想であり、祈りなのだ。

プータラへの礼拝

一般に18本の型があると言われるこのメイパヤット。実はその構成は身体の柔軟性や瞬発力を開発するために周到に準備されている。それぞれのポーズや動きが次のポーズや動きのための準備運動になり、段階的に難易度を高め、それは最終的に180度の開脚や腰位置の高い360度のブリッジ旋回、3メートルのハイジャンプ・キックなど、優れた柔軟性に基づいた高度な身体操作を可能にしていく。そして、一見バレーのように見えるジムナスティックな動きのすべてが、実は潜在的には攻防の技を秘めているとも言う。


子供達の身体が温まるのに合わせるように、グルッカルの掛け声はその速さを増していく。子供達の吐く息が荒い。と、怒声が飛ぶ。『口を開くな!呼吸は鼻だ!』情け容赦のないグルッカルの叱責が、時に小枝の鞭を伴って子供達を追い込んでいく。彼らの表情に苦痛と必死の色が浮かぶ。けれど逆に身体の切れやジャンプの高さは、ヴァイターリに勇気付けられるようにいや増していく。

最初はしなやかなストレッチ系に見えたメイターリが、この頃にはエアロビ系としての真価を表し始める。と同時に、激しい上下動の動きと極端に低い重心は、下半身にとっては極めてタフなパワー系のトレーニングにもなっているだろう。

そこにあるのはホリスティックな運動科学だった。細分化して個別に働きかけるという西洋科学的なアプローチではなく、常に全体が連関している中で、全てが欠けることなく鍛え上げられていく。

『メイパヤットの中にカラリパヤットのすべてがある』

その姿は、躍動する野生動物のしなやかなうねりそのものだった。

ケララ州は水と緑に恵まれて野生動物も数多く生息している。先人達はそんな動物達の天性の身体能力に驚嘆し畏敬し、何とかそれを我が物にせんと願った。そうして、カラリパヤットにはおよそ810の動物のポーズがあると言われる。けれども本当に重要なのは実は静止したポーズではなく、ムーブメントにある。

野生動物は個別な筋トレなどしなくても十二分に強く、そして美しい。そのしなやかでダイナミックな『天性』を獲得しようというのが、カラリの思想なのだろう。かつて日本のCMを賑わせた『鳥人』的な3mのハイジャンプ・キックは、その思想を見事に体現していると言っていい。

一般に一回1時間前後の稽古では、準備運動として基本のキックを十数分行い、その後に18本あるうちの2~3本のメイパヤットが稽古される。上級者の場合はその後武器技へと進むのだが、初心者は体錬によってまず身体を十二分に錬らなければならない。

私自身も、入門から5日間はひたすら基本の蹴りだけを1時間やらされ続けた。3日目には特に太ももの裏側の激しい筋肉痛によって、トイレでしゃがむ事もできないくらいの惨状を経験している。その後、メイパヤットの型シリーズに行く頃には痛みは大分治まったが、今度は運動量の多さに根を上げる事になった。先輩の稽古を見る分には美しいが、いざ自分がやるとなると、それは正直、苦行以外の何物でもなかった。

一般にカラリパヤットの修行システムは、78歳の頃に入門する事を前提にデザインされている。この時点でとうに中年の坂を越えていた私にとっては、いきなりのキック攻めは少々無理があった事は否めない。けれど、何とか耐え忍んで10日目が過ぎた頃には身体も慣れ、メイパヤットで動いているさなかに、ある種の充実感や「軽み」さえ感じられるようになっていた。だがそれも傍から見ればかろうじて動きの流れを覚えたに過ぎない、なんとも見苦しいものだったに違いない。そう卑下せずにはいられないほど、少年たちの熟練の身のこなしは美しかった。

何はともあれ、十二分に身体が練られると、いよいよ武器技の登場となる。

最初はコルターリといわれる木製武器技のうちの棒術。それぞれの身長ほどの長さがある、ケトゥカーリと呼ばれるしなりのある棒を使って回転技が始まる。ワディ・ヴィーシャルだ。一般には、メイパヤットに習熟し身体が出来上がるまで武器技は許されないのが普通だが、あの日以来ひそかに回転技に恋焦がれていた私は、短期修行という事もあり、グルッカルを拝み倒して入門10日目にして特別に許されたのだった。

ヴィジャヤン・グルッカルの指導を受ける筆者

このワディ・ヴィーシャル、グルッカルの模範演武を目の前で見ると、棒の真ん中を片手で握って、スナップを利かせた手首の回転と身体の切り替えしだけで棒を回している事がわかった。右へ左へ上へ下へ前に後ろに、途中で左右の手を持ち替えながら、およそ考えうるあらゆる方向に棒を導き、その回転を加速させていく。

その動きは、分かりやすく言えばフィンガー・トリックを使わない長いバトンといった感じだが、バトンと違うのは、棒の回転面が常に地面に対して垂直に立って回っているという事だった。だからこそ、私が初めてテレビでこの技を見たとき、滑らかに回転し続ける車輪のように見えたのだろう。

聞けば、最近では主に祭りやイベントの出し物、つまりショーとして演舞されることも多いこのワディ・ヴィーシャル。棒の両端に火を燃やしてのファイヤー・ショーでも有名で、一見単なる見世物で武術的な意味は低いと思われがちだ。しかし、いざ自分がやってみると、その技巧的な難しさ、そして遠心力を伴った運動負荷の大きさ、その中でのバランス感覚の難しさ、さらに動員される筋肉群の連動性、ステップと合わせた切り返しの妙、さらに脳と身体の絶妙の協調性など、あらゆる武器技をこなす為に最適なエクササイズだと理解できた。

以前合気道をやっていた私にとって、そのステップや手首の流れは入り身転換からの投げや関節技の動きと重なる部分も多く興味深い。回転する一本の棒を仮想敵に見立てた、シミュレーションとも思えるからだ。

実はこのワディ・ヴィーシャル、カラリパヤットだけではなくインド全土で、それぞれ異なった名前で実践されている事を後で知った。いわばインド武術の共通言語と言ってもいい。長い植民地時代の徹底した弾圧や、近代化による伝統武術の衰退を乗り越えて、今なおこの技がインド全土で実践されている事実がある。

『メイパヤットによって下半身を練り、ワディ・ヴィーシャルによって上半身を練る』

グルッカルのこの言葉が、回転技が持つエクササイズとしての普遍的な有効性を物語っている気がした。

だが不思議な事に、誰に聞いてもこの技がダルマ・チャクラを象徴しているという証言は得られず、私は途方に暮れる事となった。こんなにも明白に車輪の回転そのものに見えるのに、何故それが認知されていないのだろうか?その後も実に2年以上に渡って、私はこの問題に悩み続けなければならなかった。

カラリパヤットの修行は長く、そして深い。通常は7歳前後で入門し、最低でも1年ほどのメイパヤット修行を経て棒や短棒、ガダーなど木製武器技に出世し、数年かけてそれをマスターすると、刀や槍、そしてウルミーなど難易度の高い金属製武器技へと進んでいく。武器技の段階ではパートナーと組んだ攻防の型が重視され、非常に実戦的な稽古が繰り広げられる。そして最後に、すべての武器を失ってもなお戦う事のできる真の勇者の技、ヴェルム・カイ(素手の格闘術)によって完成されるのだという。

そこでは、マルマンという急所の攻防を焦点に打撃技、投げ技、関節技などが駆使され、日本の柔術との類似性もきわめて高い。実はこのヴェルム・カイの完成のためにこそ、すべての稽古は存在するのだと、弟子は教えられる。そして、この最も高いレベルに到達するためには、ゆうに10年はかかるとグルッカルは言う。それは入門した少年が成長し、若武者へと成人するプロセスと一致する。

だが、カラリパヤットの世界はそこで終わらない。人を攻撃するための急所が人を治療するための『救所』へと転化し、戦いの技術の向こうに、まったく相反するような癒しの療術が展開していく。それは日本の柔道整復師とよく似ている。だがスポーツ化した日本の武道の中で療術家を兼ねる武道家がマイノリティであるのに対して、カラリパヤットの場合は、武術家=療術家の等式が現代でもほぼ100%成立する。

カラリ・マッサージ

マルマンと薬草の知識は交易路を通じてアジアの全域に大きな影響を与えた。タイ・マッサージの『セン』の観念、そして中国や日本のツボ療術は、南インドのマルマンに由来するとも言う。文化の総体としてのカラリパヤットは、私たちとも決して無縁ではない全アジアの文化遺産なのだ。

カラリ道場というエキゾチックな文化装置の中で展開する稽古に深く魅了される一方で、自ら実践すると言う意味で私の心をがっしりとつかんだのは、やはり棒術の回転技だった。その流れるような身体操作や回転する車輪の美しい姿は、理屈ではなく私の魂を虜にしていた。その技のバリエーションを全てマスターしたい。その歴史や起源を明らかにしたい。何故、ただひたすらに回し続ける技が生まれたのか。そして、本当にこれは転法輪の棒術なのだろうか。私の中で好奇心はふくらむばかりだった。

そんな折に、道場の先輩が耳寄りな情報を教えてくれた。

お隣のタミルナードゥ州のマドゥライにはシランバムという古い棒術の伝統があり、彼らの回転技はカラリのそれを遥かに上回っているかもしれないと。それはひょっとしたら、達磨が学んだ棒術そのものかもしれない。その後いくつかのカラリ道場を見学し、およそ2ヶ月に及んだケララ滞在を終えた私は、期待に胸を膨らませて、新たな目的地タミルナードゥ州へと向かったのだ。